731からフクシマまで

731部隊の免責→アメリカの核政策に追随!!

細菌戦の系譜!! 


中国侵略戦争
第5回「戦争の加害」パネル展in横浜
細菌(生物)戦争
『BCGと人体実験』 美馬聡昭著
731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
防疫研究室と昭和天皇の関係
1940年と2020年の東京オリンピック
731部隊と国立感染症研究所の問題
731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
情報公開裁判「化学学校記事」「衛生学校記事」
ABC企画委員会
731部隊・100部隊展
記憶の継承を進める神奈川の会




 

 
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。

今、世界中で猛威を振るっている新型コロナウィルス。これは、細菌戦(生物戦)ではないのか?
過去に、日本が中国で行なった細菌戦のように。(以下は現在分かっている細菌戦)

1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラチフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置

【コロナは生物兵器か】人工のコロナウイルスショックによる文明の転換点 船瀬俊介氏が語る



米軍300人が新型コロナの感染が広がる前に武漢にいたという。
新型コロナウィルスを撒いたのは??

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
 
 
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
 
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

731部隊被害者遺族の訴え!!        
 


検証・中国に於ける生体実験
東京帝大医学部の犯罪   美馬聡昭著  桐書房(2013年)
 

第3章 国家機密の抹殺

 

国家機密

背蔭河の企画立案者は誰なのか。私にとっては解決しなければならない一番の課題であった。

当初柳沢謙が伝染病研究所に所属していたことも、私は知らなかった。小高健著『伝染病研究所』の存在を知り、インターネットで買いこれを読んで初めて知った。

『伝染病研究所』は、難しい本だったが、何回か目を通すと理解できるようになってきた。この本を読み進むにつれ、第5代所長の宮川米次が、背蔭河の黒幕であることが疑われてきた。

 



  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 
 
   
この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、事実も認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?
 
●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

細菌戦裁判第1審判決ドキュメント

                                 ー嵐の4日間ー

                                                      中谷真紀子 (大学生)

8月27日午後2時~ 日比谷公園霞門前より都心デモ

◆都心に響く抗議の嵐

午後2時。すぐに抗議の都心デモが始まる。判決が終わっても休む暇などない。日差しがとても強く、暑くて汗が流れ落ちてくる。

 都心デモは日比谷公園霞門からスタートした。シュプレヒコールが日本語、中国語交互にあがる。原告団、支援者たちは肩からたすきをかけたり、ゼッケンを着けたりして、のぼりを掲げ、遺影や横断幕をもって進む。「日本政府は731部隊細菌戦の被害者に謝罪と賠償を行え!」と書かれた横断幕を先頭に、その他にも中国語で書かれた横断幕や中国の人々の署名で埋まった横断幕などがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

731部隊の行なった細菌戦

 
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難
 
           

2013年5月12日、安倍晋三宮城県東松島市航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。
           
731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!

731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記

 
 
731部隊新文書公開   赤旗200620
京都 隊員の敗戦時の行動
 日本陸軍の細菌戦部隊・731部隊に所属した隊員の敗戦時の行動などについて、公文書により新たに明らかになった資料が19日、公表されました。研究者2氏が、京都市内で記者会見しました。
 会見したのは、滋賀医科大学の西山勝夫名誉教授と、「15年戦争と日本の医学医療研究会」幹事の原文夫氏。
 今回明らかにされた資料は、731部隊を本部とする関東軍防疫給水部(関防給)の各支部、隊員の詳細について記された「関東軍防疫給水部部隊概況」。国立公文書館から今年3月に西山氏らが入手し、判読できるよう両氏によって翻刻(ほんこく)されました。
 これまで関防給の部隊員名薄は、当時、陸軍の全部隊が作成していた「留守名簿」が初めて公となった文書でしたが、隊員の詳細までは明らかになっていませんでした。今回の資料では、五つの支部ごとの所属隊員の氏名が、行動群別に階級、本籍、行動状況とともに記されています。また関防給の敗戦時隊員数が、総計3262人であったことも明らかになり、「公文書によって明らかになったのはおそら初めて」としています。
 会見で西山氏は「『留守名簿』で不明だったことが明らかになった意義は大きい。731部隊生き残りの方たちの証言の裏付けにもなる」と強調。原氏は「政府は731部隊を公式には認めていない。およそ全体像が明らかになってきたもとで、研究者が協力して、早く解明すべきだ」と述べました
 
 
1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
 

 
 
 
「1931」斉藤準太郎の日記
 
 
 

一月十一日

忘れていた田舎から手紙で僕の母の姉妹である大浜の禰宜田さんが死んだ また同姉妹の西山の人も病気だとか 僕の母も非常に寂しく思っておいでだろうにな  も健康とは何より  母よ健在なれ  僕は後1ケ年はないのだものね

 ●パネル展「日中戦争―その実相に迫る!」感想(2020年2月8日~13日)

 

2/10(月)

12. 今回の写真展に関し、写真は「真実を写している」ためやはりショックでした。戦争に関する本はとても多くあり、戦争を知らない世代にとっては何が真実なのかも不安(曲げられた事実もある)です。世界中で戦争になった多くの犠牲者のためにも戦争は絶対起こしてはいけない事を改めて思いました。又このような企画展には、ぜひ出席したいと思います。(女、60、市内、チラシ)

 
 
 
 
 
 
 
 
    
●映画「ひろしま」アンケート(1月13日 横浜)
( )は性別・年代・住まい・情報

74. 一度は見たいと思っていました。大砲を作り始めた工場をやめた青年が、なぜ辞めたかを話す場面が心に残りました。その通りです。平和記念館で見たものも頭に残っています。「原爆の絵」と同じものを映画で表すには、とても難しいと思いました。でも、作った人々の思いが、とても強く伝わってきました。上映してくださって、ありがとうございました。

(夫婦・50代・相模原市・教職員組合

 

 

 

 

日本は、日中戦争国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

●細菌戦
【真相】(unit731)

・『石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言』
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店

V 私は中国軍の捕虜だった

<ー総務部調査課翻訳(情報)班 H・M

 

われ、ハルピンを脱出せず

ソ連軍のハルピン進駐は、翌昭和21年4月まで続いた。その間、ソ連軍は軍政を敷いた。幸い、ソ連軍は戦犯追及にまで手が回らなかったようである。
 私は、ハルピン市南崗(なんがん)にあった開拓団中央病院に設けられた日本人難民委員会診療所で、医師として忙しい毎日を送っていた。当時、ハルピンには、奥地の町や開拓団村から避難してきた人や引き揚げずに残留していた人など、かなりな数の日本人がいた。敗戦という苛酷な状況下にあって、病人や怪我人も多かった。忙しくはあったが、医師として、私は、充実した気持ちで一杯であった。
 昭和21年4月3日、ソ連軍がいっせいにハルピン市内から撤退すると、周囲を取り囲んでいた林彪(りんぴょう)麾下(きか)の東北民主蓮軍(共産党系)が、入れ替わるように、ハルピンに入城してきた。

 
・『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』

中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳

三 警察・憲兵の第731部隊への「特移扱」 
 

平野部隊『陣中日誌』抄録(1939年7月17日~9月19日)

特殊輸送護衛に関する命令

  関憲作命第224号

関東憲兵隊命令      8月8日16時 関東憲兵隊司令

3、承徳憲兵隊長は承徳憲兵分隊柴尾大尉を、平野部隊長は下士官兵25(曹長1を含む)を、関東憲兵隊教育隊長は衛生下士官1を、8月9日中に山海関に派遣し、錦州憲兵隊長の指揮を受けしむべし。

4、哈爾濱(はるぴん)憲兵隊長は石井部隊長と密に連繋し、哈爾濱駅並びに爾後の輸送に当たり防諜並びに取締りに遺憾なきを期すべし。

 

 

 

 

 
  
 
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著
第1章 毒ガス兵器の研究と開発

4 対ソ戦を想定した毒ガス兵器開発と人体実験
 

毒ガス兵器の人体実験②

1942(昭和17)年5月30日に作成された教育総監部「化学戦重要数量表」(『資料集Ⅱ』資料14)は、日本軍の各種毒ガスについて、人と馬の呼吸器・眼・皮膚に及ぼす中毒度・効力・効果発現時間・回復時間が細かく記載されている。例えば、「ちや1号」(青酸)の「人」に対する作用として、防毒面を着けない場合、1立方メートル中の濃度が1500ミリの場合は2分で「致死」、濃度2000ミリの場合は1分で「致死」し、濃度400~700ミリの場合は4,5分で、「戦闘不能」(回復に30分から1時間を要する)、700~1000ミリの場合は1,2分で「戦闘不能」となると、極めて具体的な数字を明記している。

 

 

 

 

 

 

  
  ・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第13章

毒ガスは消えず

埋めるー中国の毒ガス弾に対する処理

 

東北地方で毒ガス弾が発見されたこと、そしてそのために負傷者が出たことは直ちに東北軍区と中央政府に報告された。政務院と東北行政委員会は毒ガス弾問題を非常に重視し、毒ガス兵器発見の情況を報告するよう各地域に求めるとともに、「正式許可を得ないうちは、毒ガス弾の処理は中止せよ」という命令を下し、第2機械工業部に方法を検討させた。第2機械工業部駐東北辨事処は、調査の結果、これらの毒ガス弾のうち60%の弾体には爆薬が入ってないことを発見した。

 

 
 
              毒ガス工場の焼却
 
 


日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題

 
●『三光』     中国帰還者連絡会
日本鬼子(リーベンクイズ)
 

焼け火箸ー拷問の挙句に斬首

佐藤五郎
分隊員 上等兵

(旧部隊名)第59師団第109大隊

「黙って入るところは空き室だけだ、わかったか」「ハイ、わかりました」もつれた口調で言った。「官姓名を言って入ってこい」また食堂の入口に立たされた。「佐藤一等兵、食堂にまいりました」官姓名を叫ぶたびに襟章がが気にかかった。

「よし、入れ」許しを得た佐藤一等兵は、頬をさすりながら歩いて行く。高本を囲んだ2,3の古年兵は口をそろえたように、「初年兵は殴ると強くなるんだ」と言う。「アハハハハ」-笑いが上がった。≪畜生、2年兵になっても初年兵扱いをしやがる、今に見ていろ≫。佐藤はそう考えたがどうすることもできなかった。≪星だ、星だ、星を増やすことだ≫と考えると、盛った飯を無造作にかきこんだ。

 

 

 2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)



日米安保条約自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!

日本の毒ガス

沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??

「琉球処分」から140 今の沖縄を考える

●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

731部隊関連の「情報公開裁判」に関する報告

和田千代子(731細菌戦部隊の実態を明らかにする会事務局長)

第3 『化学学校記事』裁判の問題点と争点

公文書である『化学学校史』から『化学学校記事』発行の活動を消したのは、1969年7月から10月に、『化学学校記事』をめぐる社会的事件が起きたことからです。

 具体的に言うと1969年7月の沖縄米軍化学兵器接触事故の報道、7月23日、第61回国会の衆議院外務委員会における伊藤惣助丸衆議院議員の国会質疑、8月4日の楢崎弥之助衆議院議員の「在日米軍及び自衛隊における化学・細菌作戦に関する質問主意書」、10月15日、久保綾三氏の出版物『BC兵器』に「化学学校記事」の論文を引用し化学兵器の使用訓練が行われていると批判され社会問題化していました。

 

 
 
・次回『衛生学校記事』情報公開裁判(第26回)東京地裁419号法廷
延期になっています。
 
・次回『化学学校記事」情報公開裁判も(第16回)東京地裁522号法廷も
延期になっています。


第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。

1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。

『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊


第4代衛生学校長

『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
          


金原節三と細菌戦

金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。

細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。

金原節三と武見太郎

金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。

※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!

軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人

収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。

 

●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。

Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み

2、 生物・化学兵器の種類と特性

血液ガス

これは、一般に経口吸収されると、呼吸の変調、全身痙攣をおこす。

a      AC(青酸)・・・・・・HCN

b    CK(演歌シアン)・・・CN・Cl

c    SA(アルシン)・・・・AsH₃

 

 

 

第5代衛生学校長

井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身

1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】

第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。

井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。

又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。

南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
            

イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
水俣病問題
小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去
小泉親彦と宮川米次の絆
ヒロシマからフクシマへ
宮川正
「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
ビキニ「死の灰」世界各地へ
自衛隊とサリン
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
日本の国家機密
兒嶋俊郎さんを偲ぶ


昭和天皇の戦争責任を問う!!

天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。



 

昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修 
2001年ピュリッツァー賞受賞

昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
          


第12章大元帥の試練

沖縄戦が熾烈になっていく間に、天皇は梅津に対し、陸軍が中国の防衛線を縮小し、北方の満州と朝鮮の防衛、さらには本土防衛に部隊を再配置しようとしていることについて注意を与えた。414日、天皇は「敵の宣伝に注意せよ、 ・・・  この際敵地区の鉄道・村落破壊等により民心に悪影響を及ばさないか」と梅津に注意を促していた。しかし、天皇の主たる関心は、部隊を撤退させれば、その跡にアメリカ軍が新たな航空基地を建設することとなり、日本に「不利なことはないか」という点にあった。

 
                    
 



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

地球の温暖化や異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!


●『二酸化炭素温暖化説の崩壊』広瀬隆(集英社新書 2010年発行)

第2章 都市化と原発の膨大な排熱

ヒートアイランドと熱帯夜

第1章の40頁【図13】の図で示したように、CO₂温暖化というストーリーは、地球からの熱を温室効果ガスが閉じ込める、つまり第2の断熱材に相当する話であった。これから議論するのは、ここまで全く議論していない第1の直接加熱の影響である。

 

 
●核実験(ウキペディアより)

若くして白血病で亡くなった夏目雅子本田美奈子、また五輪候補選手だったスイマーが白血病になったのは、放射能の影響ではないのか?

月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子

核実験

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 

 

インド

詳細は「インドの核実験 (1974年)」および「インドの核実験 (1998年)」を参照

· 1974年5月18日 ラジャスタン州ポカラン砂漠で初の原爆実験。

· 1998年5月11日13日 熱核反応装置(水爆に相当)実験に成功。

 

 

 

 

 
 



●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future




核融合もすべきではない!!
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について




日本政府・自衛隊は情報を公開せよ!!(情報開示!!)

今年も8月12日がくる──。33年前 520人が犠牲になった日航機墜落、遺物の化学分析で判明した事実とは?

中曽根元総理が知る日航機墜落事故の真実とは?墓場まで発言の真意を調査!

ここの研究所は、どんなことをやっているのだろうか??

国立感染症研究所村山庁舎(武蔵村山)

●1954年3月1日第5福竜丸他1000隻もの船が被曝!核兵器廃絶!!

なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!
       
      
原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。

封印された原爆報告書



水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した!!
       
 
 
 
 
 
 
           

JCOの臨界事故


福島第1原発事故

核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
「731部隊・100部隊・毒ガス戦」パネル展 2019年4月29日~5月3日
「日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか 」 田中利幸さん
日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病

731部隊(unit731)
昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!