731からフクシマまで

731部隊の免責→アメリカの核政策に追随!!

細菌戦の系譜!! 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『BCGと人体実験』 美馬聡昭著

731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
防疫研究室と昭和天皇の関係
1940年と2020年の東京オリンピック
731部隊と国立感染症研究所の問題
731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
ABC企画委員会
731部隊・100部隊展
記憶の継承を進める神奈川の会

対話前に政治犯解放を 民主派「首相」が訴え―ミャンマー

米中の生物兵器開発?

20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」

 
 
 
 
加害の事実に触れない政府主催の全国戦没者追悼式反対!!
空襲被害者を救済せよ!!

日航機墜落事故の原因を究明せよ!!

 


第6回 戦争の加害パネル展

(感想)

5月6日(木)

38、ほとんどの人が無関心で済ませているのは問題です。これらのことを謝罪も補償もせず、しようともしない政府を変えなければ次の世代も恥ずかしいと思います。展示をしていただき、ありがとうございます。

(不明、70代、市内、チラシ)

 
 

 


 
 
 
 
 










原告たちのあまりに理不尽な被害

『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子

 

 

         昭和への挽歌   野崎忠郎




 
 
 
 

 

 
 
 

自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。

 

『日本医学百年史』1957年1月1日の731部隊の記述

 

日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236

 

「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。

昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年ノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。

勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。

 

 細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」

 

 
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
 

 

 

 
 

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回

 

731部隊と人権ー裁判から考える

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回

 

 
パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
      医学と人権を考える―
 


ミドリ十字は元731部隊員が作った会社
 
1958年頃、東大で血友病を研究していた安部が内藤を訪ねて血漿分画製剤を分けてもらったことに始まる。内藤は安部を支援した。安部は医薬品の承認に欠かせない「治験」を担当する。厚生省が日本の製薬5社の加熱製剤の承認に時間がかかったのは、遅れていたミドリ十字の開発を待っていたからだといわれる。
(山岡淳一郎著『感染症利権』)より
 
 
 
 
 
 

隠された毒ガス兵器

 
小津安二郎も毒ガス部隊だった
 

『従軍日記』 小津安二郎

森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!! 
    

※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!

 

「公文書管理を考える」(4) 磯田道史・国際日本文化研究センター准教授

 

  新宿・謎の人骨100体・731部隊【歴史解説】

1989年7月22日、新宿で謎の人骨が大量に発見された

歴史改ざん(「風を読む」)

 

     

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。


今、世界中で猛威を振るっている新型コロナウィルス。これは、細菌戦(生物戦)ではないのか?
過去に、日本が中国で行なった細菌戦のように。(以下は現在分かっている細菌戦)

 日本政府・日本医学界が、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に立ち向かわない限り、オリンピック開催はないであろう。

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」


1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラチフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置


 

 
 

 

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 

731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。

 

 

NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日

 

 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

1929年12月24日~1930年1月4日、長與又郎、1930年4月22日~?宮川米次、1930年4月23日~?宮川の娘婿の岡西順次郎が中国へ出張しているが

何をやっていたのか?宮川の支那漫談とはどんな内容なのか?

 

実験医学雑誌第16巻雑報

16巻5号(1932年)

学術集談会開催

4月21日午後1時より所内講堂において、学術集団会開催。演題は次の通りであった。

1、スピロヘータ、デンテイウムの純培養について    中本為次郎君

2、既製内服ワクチン成分の検定法に関する研究       栗本珍彦君

3、溶血と無機塩類との関係                  守山英雄君

4、大原菌について(総説)              二木謙三

 

  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

   

この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

 

 

第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

第5 当裁判所の判断

1 ヘーグ陸戦条約3条ないしこれを内容とする国際慣習法に基づく損害賠償請求について(争点1)

(3)ヘーグ陸戦条約3条の用語の通常の意味に照らした解釈(条約法条約31条1項)

ア 国際法における伝統的な考え方によれば、国際法上の法主体性を認められるのは原則として国家であり、個人は、国際法においてその権利義務について規定され、かつ、個人自身の名において国際的にその権利を主張し得る資格が与えられて初めて例外的に国際法上の法主体性が認められると解されている。

 また、個人が、他国の国際違法行為によって損害を受けた場合には、当該個人は加害国の国際責任を追及するための国際請求を提出し得る主体としては認められず、その個人の属する本国が、当該個人の事件を取り上げ外交保護権を行使することによって、自らに対する法的な侵害として引き受け、国家間関係に切り替えて相手国(加害国)に国家責任を追及するものと解されている。

 

 
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

     731部隊の行なった細菌戦


 

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難

 

           

2013年5月12日、安倍晋三宮城県東松島市航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           

731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!

731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記

 

 

 

 

 日本の中国東北侵略から90年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

「1931」斉藤準太郎の日記

 一月二三日

写真屋(鞍山斉藤)に小見出しを入れて写真撮る 楽しい 宿営地は未だ二里余りだ。山から山 谷から谷 平康里至二里を快適行く。平康里は非常に小さき故 今一里蛾点庄で宿営だ。八里余りも雪道を歩いておまけに宿営衛兵で寝ずの番だ。兵隊商売止めだ。

 この部落は守備勤務上非常に大切な部落だ 馬賊が非常によく出て困る所 明日は午前6時半出発 最後の道 遼陽に行く 僕の泊まった所は非常に綺麗な家で、大変日本化して主人は日本語が非常に上手だ。そして親切だ。やはり日本の様子を少しでも知れば大変理解しているらしい。出来うる限り支那人と付き合うことは大切であると教えられる。

 
 
軍都広島での物語

大江健三郎

ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)

 挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年86ポツダム書店発行)より

 

Ⅶ 広島へのさまざまな旅


 
  一週間経って、死んだ青年の婚約者が原爆病院を訪れた。彼女は、青年を看護した医師や看護婦たちにお礼を言いに来たのだと言った。彼女は楽器店に勤める娘らしく、よくレコード棚やバイオリンの陳列ケースに置いてある、陶製の一対のシカをお土産にした。20歳の娘は平静で穏やかな挨拶を残して去っていったが、翌朝、彼女は睡眠薬による自殺体として、発見されたのであった。僕は、大きい角を備えて強そうなシカと、愛らしい牝のシカの、一対の置き物を見せられて、暗然とし言葉もなかった。

 

 

 

原爆初動調査 隠された真実

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  日本は、日中戦争国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

 

 

Ⅱ 関連部隊・支部

ネズミを集め、ノミの飼育

フンドシ一丁の体にノミが・・・・

 

伊藤影明(いとうかげあき)

1855部隊

(略歴)

1924年生まれ

1943年 北支那派遣軍甲第1855部隊部隊配属

1944年 発疹チフスで入院

1946年 帰国

■この証言は1992年3月の戦争体験を語り継ぐ会(横浜)、731研究会の学習会での発言(94年11月)をもとに本人がまとめたもの。

 

衛生兵の教育

以前から教育が終わったら“北支”ではなく、南方へ行くんだぞと言われていましたが、コレラのために一か月半教育が遅れたことと、私たち自身がコレラに汚染されている恐れもあることから南方へ行くことは中止になりました。本来なら4ヶ月で終わる教育を6ヶ月かけて終え、私たちは配属されました。“北支”では、本部を含めて支部出張所が、16、市内に分遣隊が2つあり、私は第2分遣隊に配属されました。私たちの同年兵は47人いたのですが、そのうち第2分遣隊に配属されたのは7人です。47名を16の支部で割ると大体2、3人になるので、同年兵から「お前たちはいいな。何で7人も一緒に行くんだ」と言われました。同年兵の仲間が別れるということは非常に悲しく寂しい、複雑な気持ちでした。

 

 

 

●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編

 

江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳






Ⅰ東北

3 遼寧

張丕卿の日本帝国主義による生体解剖の残虐行為に対する告発(1954年6月29日)

・・・・・・

この他私の知るところでは、当時学生が実習に使った死体は全て奉天の監獄から楊×山という老人が送り込んでいた(同人は既に死亡している)

 1943年から45年の光復まで、200から300の死体が運ばれ(そのうちの一部はまだ名簿が現存している)、大部分が男性で約10体ほど女性のものがあり、全体の中に2、3体絞殺死体が混ざっていた(頸部に絞溝があることがその証拠である)。これらの死体は全部、学生の解剖実習に使用された。

 以上のことはすべて私自身が見聞したことであり、私はこれらの事実をもって日本帝国主義車の残酷な罪行を告発せんと望むものである。

(1)119-2、21,2、第18号

 

*訳注:満洲医科大学―原文は「偽南満医科大学」。南満洲鉄道株式会社(満鉄)が1911年に設立した南満医科堂として発足、1922年に大学に昇格して満洲医科大学と改称。14ページに「奉天医科大学」とあるのもこの大学の別称である。日本の敗戦で中国に接収され、人民共和国成立後は中国医科大学となった。なお、本文中の鈴木真吉は1930年に同学解剖学教室助教授、のち教授(『柳絮地に舞ふー満洲医科大学史』輔仁会、1978年)。

 

 

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第6章 アジア太平洋戦争期の毒ガス戦

 

2 ソロモン諸島アリューシャン列島をめぐる激戦と毒ガス兵器

 

アッツ島ウェーク島への「ちび」配備

 その4か月後の5月12日にアメリカ軍がアッツ島に来攻し、日本軍守備隊との戦闘が始まった。

5月15日に守備隊はアメリカ軍がガス弾を使用したことなどを打電し、また北海守備隊司令部の戦闘詳報にもアメリカ軍がガス弾を使用したと記されているという(防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 

 北東方面陸軍作戦1』)。その真偽は現段階では詳らかではないが、元陸軍習志野学校関係者は

「〔43年中には〕時折戦場から、どうも敵が瓦斯を使ったらしいという情報がちょいちょい入るわけです。それはよくわからんのですが、砲爆撃を受けて、それの瓦斯的な作用がある程度起こったんじゃないか。また、〔砲爆撃で発生するなどして、兵士を中毒死させる〕一酸化炭素の問題もあると思いますが、度々、そういう情報が入りました。そういう時に非常に神経を尖らせるとがらせたわけです」を回想している(福田正記司会「化兵を語る座談会―知られざる戦史」第3回)。

 

アッツ島の日本軍守備隊は、撤退命令も出されず、増援部隊も送られないまま、5月29日に「玉砕」した。断末魔の戦闘で守備隊がアメリカ軍に「ちび」を使用したかどうかわからない。

 

 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

 

第6章 悪魔の兄弟たちの毒ガス網

 

共同の人体実験

 

 

 若生重作さんの回想によると、彼はかつて731部隊への出張命令を3回受け、毎回516部隊の製造した試験管、フラスコ、ピュレットなどのガラス器具を携帯した。731部隊はドラックをハルピン駅に差し向けて出迎えたが、ガラス器材は通常5,6台のトラックに乗せた。

 731部隊が行った毒ガス実験に関して、元隊員の越定男さんも重要な証言をしている。彼は1993年10月10日、日本の「戦争責任研究」の編集者山口俊明さんにこう語っている。

「私は731が最も多く行ったのは毒ガス実験だと思う。実験場は専用飛行場の一角で、周囲に高い塀をめぐらし、中に外側から観察できるガラスをはめた実験室があった。観察対象はトロッコで運び込むことができた。



 



 
 
 

 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


 

 

 

 

●『三光』     中国帰還者連絡会
日本鬼子(リーベンクイズ)

核時代39年(1984年)5月初版発行

 

日本鬼子(リーベンクイズ)

村落掃討

上級将校の罪行

 

野間栄作

V

下庄に帰ってきた私は、下庄の隊長林少尉から「部隊が八路地区に進攻してから、反対に八路工作者が占領地区内を安全地帯として潜入したようです。特に『日本軍警備隊』近くの村落が利用されているようです」という報告を聞いて、≪やりそうな戦法だ。灯台の下に潜れば、日本軍の行動は手に取るようにわかる。よし捕まえてやろう≫と考え、「林少尉の報告は八路軍のやりそうな戦法と思います。中隊の兵力も2日休養しましたから、明日五家村の地下組織を打ち壊しましょう」と大隊長に報告した。

 小野は無雑作に「よし、うまくやれ」と言ったので、私は早速、山村を呼び寄せると、下庄東北方約5 kmの五家村の組織破壊の準備を命じた。

2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 



日米安保条約自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!


日本の毒ガス


在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。

 訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。

 米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。

 CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。

 今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。

 
*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。
 

●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

- 731 部隊関連資料の情報公開裁判の傍聴支援をお願いします ー 
 
■ 第 31 回『衛生学校記事』情報公開裁判:10 月 21 日(木)15 時~103 号法廷 
 
8 月 25 日、5 人の証人(防衛省職員)が認められ以下の日程で証人尋問を行います。
 ・12 月 20 日(月)午後 2 時
 ・1 月 14 日(金)午後?時
 ・1 月 24 日(月)午後?時
■ 第 20 回『化学学校記事』情報公開裁判:11 月 10 日(水)11 時~703 号法廷
 
 
◎「衛生学校記事」「化学学校記事」その他自衛隊に関する

情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。

 

連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp

 

日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

            藤井治夫著

第二章国家機密の構造

自衛隊の機密事項

正体不明の「機密」

 極秘」の指定基準

「機密」に指定されている個々の文書を摘示するのは第2篇の課題として、次に「極秘」の指定基準として空自達がしめしているものをみよう。それは次の12項目にわたっている。

第10条 訓令第5条第2号の秘密区分の極秘に指定すべき知識又は文書等は次の各号に掲げる基準によるものとする。

(1)航空自衛隊の出動及び出動準備に関連する基本的な計画及び情報で、秘匿を要するもの

(2)出動部隊の行動の詳細及び命令

(3)出動地域における出動部隊の編制装備、移動及び士気並びにこれらに関連する情報で秘匿を要するもの

(4)出動のための編制及び装備のうち航空自衛隊全般に関するもの

(5)出動部隊の輸送、通信連絡及び補給等の計画、命令、報告のうち訓令第5条第2号に該当するもの

 

 

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊

 

 

 

 


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。

 

Ⅳ 安保体制下の生物化学兵器

1 自衛隊の基本戦略

「防護」の裏話

 この中では、憲法上の制約を受けざるを得ない自衛隊が、用語、表現上どのように苦慮しているのかを裏書きしている。即ち、憲法上の制約をいかにうまく逃れるかということは、単に表現上、用語上のテクニックであって、戦略的、戦術的に軍事問題としての全く新しい(実はそのようなものは存在するはずもないのだが)「防衛(自衛・非攻撃性)理論」についての議論が行われたり、研究されたりしているものではない。

 自衛隊の装備、訓練、編成の実態や教範類の内容と、公式の発表や見解との間に多く矛盾が見出せるのは、そのためなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昭和天皇の戦争責任を問う!!


天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。


 


 



昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

 

 

昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!


戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
  

     



4部 内省なきその人生

1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年

 

第16章 神秘性をとりもどす

 1949年、新しい演出のもとで天皇の巡幸が再開され、51年まで続いた。この時期の初めにGHQは、固く禁じていた広島・長崎の原爆の諸影響に関する公の議論を許容した。それによって平和運動が勢いづいた。占領は新しい軍事指導者に担われ、急速に終結に近づいていた。

 この時期には、東アジアの国際情勢も目覚しく変化していた。49年にはソ連が原爆の開発・実験に成功し、毛沢東の率いる中国共産党は中国本土で蒋介石の国民党軍を撃破した。国民党は台湾に逃れた。1950年1月末、マッカーサーと極東有事に備える防衛計画を検討するため、統合参謀本部議長オマー・ブラッドリーが東京に飛んだ。これに関してトルーマン政権は、有事の際にはマッカーサーの権限の拡大を認め、琉球諸島を含む日本周辺の広大な海域を管轄させることにしていた。トルーマンは同時に、国家安全保障会議文書48/2(1949年12月)と、のちの同68(1950年2月)に盛り込まれた、挑発的で危険の多い戦略を採用した。3カ月後の6月25日に朝鮮戦争が勃発した。こうした事態に対応して、日本は再軍備をし、警察力を強化し、アメリカの大規模な経済援助を受けることになった。日本はたちまち戦後最初の好況を謳歌しただけでなく、ナショナリズムの最初の高揚も迎えた。主にこれらの変化への反作用として、国際的な平和運動の一環としての日本の平和運動が生まれたのである。

 

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

RENUNCIATION OF WAR Article 9.

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

 

 

 

 

 

 

 



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!


※私が考える、今の異常気象の要因は

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、都市化したコンクリートアスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

4、自動車社会の排ガス

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?

● 核実験

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 


アメリカ合衆国

ニューメキシコ州での核実験

2010年11月18日 Zマシン(サンディア国立研究所)と呼ばれる核融合実験装置/X線発生装置を使い、核爆発を伴わない「新型核実験」に成功している(この実験はマスメディアなどでは一応臨界前核実験とは区別して新型核実験と呼ばれている)。これは強力なX線を発生させ、超高温、超高圧の核爆発に近い状況を再現し、プルトニウムの反応をみる実験である。この実験は2014年11月まで続いており計12回行われている。

 

 

 

 「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】




●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future




核融合もすべきではない!!

核開発に反対する物理研究者の会通信
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について


なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!

       

      

 

原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。

封印された原爆報告書




水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した

 

 

           

JCOの臨界事故


福島第1原発事故

核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!

日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病


731部隊(unit731)
昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!