731からフクシマまで

731部隊の免責→アメリカの核政策に追随!!

細菌戦の系譜!!

                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Русские солдаты! !! Часть 2 Russkiye soldaty! !! Chast' 2(ロシアの兵士の皆さん!!パート2)

 
 
ロシア軍兵士の皆さん!!
直ちにウクライナから
撤退してロシアに戻りましょう!!
 
Русские солдаты! !!
Сразу из Украины
Отходим и возвращаемся в Россию! !! 
Russkiye soldaty! !!
Srazu iz Ukrainy
Otkhodim i vozvrashchayemsya v Rossiyu! !!

 

NO WAR!! STOP PUTIN!!
ロシアはウクライナ侵攻をやめろ!!
 
 
 

ソニアの日記

 

コタバル 伝えられなかった戦争(2011)

 

セピア色の証言ー張作霖爆殺(86)

 

開戦ー前編ー

 

 

なぜ医学界は、核被害を訴えないのか?

佐渡金山の世界遺産推薦問題に「歴史戦」とやらの余地はない

 

 

原発!!

 

 

佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945) 

 
大元帥・現人神・昭和天皇と皇族の戦争責任を問う。
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??
 
          重慶無差別爆撃

 
重慶の街が爆撃で火災になる

 
 

 

 
 
 
もしかすると中国人の人骨も京都大学にはあるのでは??
丹羽雅雄弁護士の話:遺骨という問題は非常に大きな問題なんですよ。死者の尊厳ですからね。死者の尊厳ということは、生きている人の尊厳につながっているんですよね。当時の帝国大学は色々な人骨研究をやっていますからね。そうすると恐らく朝鮮半島の御遺骨の問題も当然あるはずです。リストにありますからね。
それから、台湾もあるだろうし、東南アジアもあるだろうし、そういう風に広がっていく可能性があるんですね。遺骨の問題は先住民の大きな長い歴史の中で国際的にも重要な問題になっていると・・・
 
 
遺骨収集には、清野謙次の影響が強くあった。清野は731部隊長石井四郎の強力な支援者だった。(病理解剖の最高顧問)

731部隊と100部隊の戦後責任ー永寿総合病院から見える731部隊とワクチン村(加藤哲郎講演)

南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分

 

マギーフィルム(字幕付き)

 
 
政府は都合の悪いことはいつでも隠す
森友“改ざん”赤木さん妻が財務省に抗議文

川崎の徴用工 故・金景錫の闘い お話:梓澤和幸弁護士

映画「スパイの妻」と731部隊(2021 10 16加藤講演第2回)
絶望的な核開発!!
トラウマ
●毒ガスの歴史(フリッツ・ハーバー)

●2021 9 17 浅井基文講演
細菌(生物)戦争

731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)

防疫研究室と昭和天皇の関係
1940年と2020年の東京オリンピック
731部隊と国立感染症研究所の問題
ABC企画委員会
731部隊・100部隊展
記憶の継承を進める神奈川の会

20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」

 







原告たちのあまりに理不尽な被害

『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子

 

 

         昭和への挽歌   野崎忠郎
 
                


 
 

 
自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。

 

『日本医学百年史』1957年1月1日の731部隊の記述

 

日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236

 

「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。

昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年ノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。

勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。

 

 細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」

 

 
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
 

 

 

 
 

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回

 

731部隊と人権ー裁判から考える

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回

 

 
パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
      医学と人権を考える―
 
メチル水銀中毒(「水俣病」)
水俣病」は、化学工場から海や河川に排出されたメチル水銀化合物を、魚、エビ、カニ、貝などの魚介類が直接エラや消化管から吸収して、 あるいは食物連鎖を通じて体内に高濃度に蓄積し、これを日常的にたくさん食べた住民の間に発生した中毒性の神経疾患です。
熊本県水俣湾周辺を中心とする八代海沿岸で発生し、始めは原因の分からない神経疾患としてあつかわれていました。その後新潟県阿賀野川流域においても発生が確認されました。
水俣湾周辺の水俣病については、昭和31年(1956)5月、初めて患者の発生が報告され、その年の末には、52人の患者が確認されました。 この疾患は昭和32年(1957)以降「水俣病」と呼ばれるようになりました。
阿賀野川流域の水俣病については、昭和40年(1965)5月に患者発生が報告され、その年の7月には26人の患者とそのうち5名の死亡が確認されました。 水俣病患者の認定は、公害健康被害の補償等に関する法律に基づき関係各県の知事および国によって行われます。
 
『医学者は公害事件で何をしてきたのか』 津田敏秀著
 
食中毒事件としてしっかりと認識されていたという証拠
 

全国食中毒事件録では、65頁で紹介したように、昭和31年に「Ⅶ所謂『水俣病』について」と題して特集として紹介されているものの、熊本県から食品衛生法に基づいた届出はない。一方、熊本県の隣の鹿児島県では、出水市米ノ津の事件として昭和35年(1960年)の全国食中毒事件録に水俣病3例(うち死者数1例)が報告されている。こうして見ていくと、熊本県が、意識的に水俣病を食中毒事件としては処理しないようにしていたとしか思えない。

 
 
 
 
 

隠された毒ガス兵器

 
小津安二郎も毒ガス部隊だった
 

『従軍日記』 小津安二郎

森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!! 
    

※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!

 

「公文書管理を考える」(4) 磯田道史・国際日本文化研究センター准教授

 

  新宿・謎の人骨100体・731部隊【歴史解説】

1989年7月22日、新宿で謎の人骨が大量に発見された

歴史改ざん(「風を読む」)

 

     

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。


日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」


1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラチフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置

 

 
 
戦争犯罪と戦争責任を考える(帝銀事件捜査から)山田朗(『日中友好新聞』2022年2月15日号より)
 

帝銀事件というのは1948(昭和23)年1月26日に起こった銀行強盗殺人事件である。12人が毒殺されるという日本犯罪史上でも特異な事件だ。この事件は、同年8月に容疑者として画家・平沢貞通が逮捕され、裁判の結果、1955年に最高裁で死刑が確定した。

 しかし、平沢犯行説には多くの疑問があったため死刑は執行されず、さりとて釈放もされず、平沢は再審請求をしながら1987年に95歳で獄死した。

 
 
 
 
 

黒い太陽731(1)

 

 
 

 

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 

731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。

 

 

NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日

 

 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

 

東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

 

実験医学雑誌第18巻雑報

 

18巻12号(1934年)

実験医学雑報18巻 1407頁 (1934年)

総説

満洲国に於ける見聞

    宮川米次

第6章 満洲国医育及び医療機関の将来

公衆衛生講習所設置案

 

満洲国在来の漢方医は漢薬を使用する内科疾患の診療に従事するに過ぎず公衆衛生特に伝染病予防警戒に対する知識に欠ける所あり。

しかも、年々「ペスト」「コレラ」の侵襲あり。一方満州国の現状として在来の漢薬医業の禁止する能わざる実情にあるを以てこれ等漢方医師に対し短期間の公衆衛生伝染病予防警戒の補修教育を為すは目下の急務なり。

この目的を以て伝染病研究所と衛生試験所と併合したる衛生研究所の設立計画を為し、その予算を要求したるに研究所なる名称は現実に遠きの故を以てこれを衛生技術廠と改称し予算総額も建築費28万4千円に消滅去せられ為に国家自体の伝染予防準備機関たるに過ぎざるものとなれる。然れども一般漢方医の補修教育は1日も忽ちにすべからずこれに満洲国家以外の力により本計画の実現を訴えるものなり。

 

 

 

  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

   

この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

 

 

第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

原告らの主張 (別紙3)

第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

原告らの主張 (別紙3)

日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)

第4 本件細菌戦の残虐性

 

1 ジェノサイド兵器としての細菌兵器の残虐性

 細菌兵器は、少量が使用されても大きな破壊力と潜在力を持っている。その破壊作用は長期間にわたり、一度収まっても、2度、3度流行することもある。

 又、細菌兵器は、その開発過程において不可避的に残虐な生体実験を伴う。周知の通り、731部隊は、チフスコレラ赤痢、ペスト、炭疽、凍傷などの研究に際し、常時200人から400人の捕虜を生体実験に用いた(甲35)。生体実験の残虐さと、細菌戦の残虐さは、表裏一体を為すものである。

 
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

     731部隊の行なった細菌戦


 

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難

 

           

2013年5月12日、安倍晋三宮城県東松島市航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           

731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!

731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記

 

 

 

 

 日本の中国東北侵略から91年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

「1931」斉藤準太郎の日記

(お手紙より  2020年)

「より早く、より高く、より楽に、より~」を享受して、その恩恵に預かって過してきた私ですが、折々に行き過ではないかと危うさを感じていました。

 高度成長期に見慣れた山間部の開発、大型スーパーの林立、近年になるとどこでも見かけるショッピングモール、これらに感激した一方、徐々に空虚な眼差しを向ける自分がいました。刺激を受ける事に疲れる年齢の為でもあるでしょう。

 戻れるものなら、屋根の上から遠く横浜港を見晴るかして時間を忘れていた小学生の高学年のころに戻りたい、とまでは言わないけれど、世の中が貧しさから抜け出し、ゆとりの生まれた1970年代の初期まで、と叶わぬ望みを抱いたものです。

 

 

「ずっと父が嫌いだった」

 

 
 
 
軍都広島での物語

知られていない 8月5日までの 広島 バージョン2

原爆詩集
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。
 

 

 

眼帯をかけた列車を憩わせる駅の屋上で

移り気な電光ニュースは

今宵も盲目文字を(つづ)

第二、第三、第百番めの原爆実験をしらせる

どこからかぽたぽたと血をしたたらせながら

酔っぱらいがよろめき降る

河岸の暗がり

揺れきしむボート

その中から

つと身を起すひょろ長い兵士

屑鉄(あさ)りの足跡をかくし

夜汐は海からしのび寄せる

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  日本は、日中戦争国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

 

 

Ⅱ 関連部隊・支部

シンガポールの細菌戦部隊にネズミを輸送

“難民区の華僑を虐殺”

 

大快良明(たいかいよしあき)8604部隊

<経歴>

1917年生まれ

1938年 臨時召集により輜重兵として第14連隊に入隊。第7防疫給水部に編入

1940年 現地召集解除。雇員として中支那派遣軍防疫給水部“原善部隊”に転属

1942年 南方軍岡第9420部隊に編入

1946年6月 帰国

◆この証言は1993年6月~95年までの聞き取りをまとめたもの。

 

解説ー731部隊立川飛行場 (楢崎茂彌)

 大快氏の話では、1度重爆撃機1機がエンジントラブルを起こして沖縄から台北、屛東(へいとう)と修理先を求めて飛行先を求めて飛行したことがあったので、松本氏がその飛行に加わっていたのではないかと期待したが、その時は一緒ではなかったようだ。

 以上のように、何人かの方からの証言により、陸軍軍医学校・防疫研究室と731部隊、北京の1855部隊、南京の1644部隊、シンガポールの9420部隊を結ぶ国内の拠点が立川飛行場であることが確実になった。しかし関連施設が細菌戦の研究をしていたことはなく、単なる中継基地であった。

 

 

          97式Ⅱ型重爆撃機

 

 

 

 

 

戦時中の東南アジアの様子(731部隊員増田知貞が撮影したフィルム)

日本軍政下香港(1997.7.27)


 
 
 
 

●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編

 

江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳






解説

1 生体解剖・人体実験の背景

 

日本の中国侵略戦争

この間中国の側では、対外抵抗よりも国内統一(共産党殲滅)を優先してきた蒋介石国民政府が、1936年12月の西安事件を機に、中国共産党の主張する「内戦停止・一致抗日」に方針を転換しつつあった。盧溝橋事件後の7月半ばには蒋介石は対日抗戦の決意を表明、8月には全国総動員令を発した。同月、華北共産党軍は国民政府指揮下の国民革命軍第八路軍(略称八路軍)として編成され、9月には正式に第2次国共合作が成立、また華南・華中の共産党軍は新編第四軍(新四軍)となった(10月)。

 
 

 

●毒ガス戦
 
・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第8章 戦後史の中の日本軍毒ガス兵器問題

 

 

1、日本の敗戦と毒ガス兵器の廃棄・遺棄

日本の敗戦と日本軍の武装解除

 

 

遺棄の背景
 
以上みてきたような毒ガス兵器の廃棄方法を定めていたことが、敗戦時に大急ぎで毒ガス兵器を廃棄・隠匿するために、最も手っ取り早い方法として、地中への埋没や湖沼・海などへの投棄の実行につながっていったという事は想像するに難くない。なお、海軍の毒ガス兵器処理方法についてはまだ資料が確認されていない。その解明は今後の課題である。 
 
 

 

 

第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。

百年の悲劇は、ここから始まった1

 
 

 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

 

第9章 戦犯の証言

 

戦犯たちの戦後50年

これが真実の姿なら、この民族には未来があるのだろうか?だが、今日は、会議の日本人たちがいかにまっずぐに現実に立ち向かい、いかに勇敢に自分の過ち、ひいては罪を認めているかを目の当たりにした。この日会った日本人は実に勇敢で前向きな精神に富み、真理を重んじ、未来ある民族であると確信することができた。

 

 

SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用



 



 
 
 

 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


 

 

 

 

●『三光』     中国帰還者連絡会
日本鬼子(リーベンクイズ)

核時代39年(1984年)5月初版発行

 

人間と鬼
農民を火あぶりにし生き埋めに
 
松尾富男
<旧部隊名>
第59師団第54旅団第45大隊
 

 

●―筆者からの一言〈昭和57年8月〉
 
昭和31年復員、でんぷん業に専念、42年貿易自由化により廃業のやむなきに至り養豚経営に転業するも公害のため断念、新聞店に勤務、現在に至る。この間32年に結婚、2子に恵まれ平和な勤労者として生を楽しむ。しかし、常に念頭にあるは上述の鬼畜の如き過去の己の姿である。朝は日の出とともに、夕べは星を仰ぎ、土に親しみ、額に汗し、夜は勉学に熱中し、愛する日本、郷土、そして我が家の幸福を念じていた普通の農村青年であった私。
『八紘一宇』(はっこういちう)の美名のもと、「不言実行盲目的服従」を美徳と教え込まれた若者の行き先は「殺さねば殺される」戦場であり、必然的に鬼畜と化していったのです。
 
 

2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 

 

 

    

 

 

    

日米安保条約自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!


日本の毒ガス


 

 

 

(2021年2月4日)

在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。

 訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。

 米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。

 CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。

 今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。

 
*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。
 

●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

- 731 部隊関連資料の情報公開裁判の傍聴支援をお願いします ー 
 
 
 
 
日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

            藤井治夫著

第2篇  自衛隊の機密

第1章 作戦用兵

3 最高の作戦計画

マップ・マヌーバ

 研究の意義は、そこで出てきた教訓が防衛計画に生かされていくところにあるという。研究は現実の防衛計画の適否を検証しつつ、将来の計画立案に役だてられる。さらに計画具体化の指針ともなる。そればかりか、三矢研究のように「起こりうべき事態」を設想した研究は、同じ事態発生したときは、そのまま適用されていくのである。三矢研究は以上のような意義をもつ戦略研究のなかでも、かつてなく大規模な総合的研究であった。それは3つの分野について、あらゆる問題を総ざらいし解答をしめしている。すなわち、

第1は自衛隊の戦略計画について、

第2は日米共同作戦について、

第3は非常事態にたいする法制その他の国家施策についてである。

 このように包括的かつ詳密な研究成果は、今日も自衛隊戦略研究の基軸となっているのである。その後の政府・防衛当局の諸施策は、三矢研究の見取図を下敷きとして立案され、推進されてきたといっていいほどである。かくも重要な今日的意義をもっている以上、われわれはこれを徹底的に分析研究しなければならないであろう。

 

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊

 

 

 

 


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)

Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦

1、自衛隊の装備・訓練を探る

装備・訓練の実体は

2、研究開発と自衛官の入学拒否

 

大学問題に頭を抱える

 

そして、防衛大学校が「大学」になり、医学部が設置されたとしても、一般大学や大学院における自衛官拒否問題で大学、学界、学生が提起した本質的な事柄は何等解決されるものではない。

 自衛隊が3次防計画に基づいて技術研究本部の拡充をはじめとする大幅な技術研究開発計画を推し進めていることは、前述の通りであるが、肝心の研究員、技官、医官などの学者、専門研究者の集まりが悪くて頭をかかえている。

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昭和天皇の戦争責任を問う!!


天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。


 


 



昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

 

 

昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!


戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
  

     



第1部 皇太子の教育

1901(明治34)年―1921 (大正10)年

 

第一章少年と家族と明治の遺産

 迪宮が生後14ヵ月を迎えたとき、起伏のある閑静な東京麻布の川村邸には、最初の弟雍仁(秩父宮)が加わった。ふたりの幼児はその後3年半を川村邸で過ごした。その間3人の医者、数人の女官、大勢の使用人が、子どもたちの洋風の食事から特別あつらえのフランス製の衣類まで、日常生活のすみずみにわたって周到に管理した。そして日露戦争たけなわの1904年11月、川村は69歳で亡くなった。3歳の迪宮と2歳の秩父宮は両親のもとに戻り、初めは静岡県沼津の御用邸に、のちには塀に囲まれた広大な(80万平方メートル) 青山御所の一角に新築された皇孫御殿に住んだ。1905年には宣仁(高松宮)が生まれ、同年末皇に皇孫御殿の兄たちに合流した。彼らの養育は初め父皇太子の新任の侍従長木戸孝正が監督し、のちに専任の侍従が任命された。

 

日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

RENUNCIATION OF WAR Article 9.

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

 

 

 

 

 

 

 



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!


※私が考える、今の異常気象の要因は

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、都市化したコンクリートアスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

4、自動車社会の排ガス

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?

 

 

「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え

 

●地球を破壊する核実験

 

フランス

サハラ砂漠での核実験

1960年2月13日 初の原爆実験(ジェルボアーズ・ブルー)。イスラエルの科学者が同席。事実上イスラエルとの共同実験。

1968年8月24日 初の水爆実験。

フレンチポリネシアでの核実験。

1966年から1996年1月までに約200回実施。

詳細は「フランスの大量破壊兵器」を参照

 

 

 

 「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】




●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future




核融合もすべきではない!!

核開発に反対する物理研究者の会通信
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について


なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!

       

      

 

原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。

封印された原爆報告書




水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した。
 

 
 
 

           

JCOの臨界事故


福島第1原発事故

核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!

日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病


731部隊(unit731)
昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!