731からフクシマまで

731部隊の免責→アメリカの核政策に追随!!

細菌戦の系譜!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 


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 今年は、平頂山事件から90年!!

アジア諸国との歴史認識をどう共有するか?

 

 

平頂山事件90周年(中国では)

 

 



 

 

 








 

9月18日の「赤旗」より

犠牲者の方々に心より哀悼の意を捧げます。

平頂山事件の悲劇を二度と繰り返してはならない。

政府の行為によって再び戦争の惨禍を繰り返してはならない。 

『撫順』から未来を語る実行委員会と平頂山訴訟弁護団

 

我们向受害者表示衷心的慰问。

平顶山惨案的悲剧决不能重演。

我们绝不允许因为政府的行为,让战争的悲剧再次发生。

                   抚顺告知未来实行委员会与平顶山惨案诉讼律师团

 



 

 

 

 

 

 




































 



平頂山事件90周年を迎えて
2022年9月16日
平頂山事件訴訟弁護団、「撫順」から未来を語る実行委員会を代表して 井上久士
 
 本日私たちは、平頂山事件90周年を迎えました。1932年9月16日、関東軍撫順守備隊は、約三千名の無辜の平頂山全住民を暴力的に家から追い出し、付近の窪地に集合させ、機関銃を掃射したうえ銃剣で刺突し虐殺しました。翌日、遺体にガソリンをかけて焼却し、その後崖を爆破して遺体を覆い隠しました。これは、日本軍の軍規や国際人道法に反するだけでなく、人間として許されない行為です。
 私たちは、平和を愛し、正義と人道を尊重する日本人の立場から、犠牲となられた平頂山住民とご遺族のかたがたに、深甚なる哀悼の意を表します。二度とこのような悲劇を繰り返してはいけません。そのために重要なのは、この事件を決して忘れず、日中両国で史実を次の世代に伝えていくことです。
 1996年、虐殺現場から奇跡的に生還した莫徳勝・楊宝山・方素栄の三氏は、日本政府の謝罪と賠償を求め日本の裁判所に提訴しました。裁判の過程で、原告の三人はそれぞれ日本を訪問し、平頂山事件の体験と正義の実現を日本で訴えました。環直彌弁護士を団長とする平頂山事件弁護団は、原告とともに十年間奮闘しました。日本でも原告の話しを聞き、共感し支援する人びとの輪が生まれました。
 日本の裁判所は国家無答責の法理をもって原告の要求を認めませんでした。しかし、日本軍による住民虐殺事件があったことは認定されました。日本の裁判所も、歴史的事実を否定することはできなかったのです。
 2006年に裁判が終わった後も、原告と訴訟に加わらなかった被害者の楊玉芬・王質梅氏らは「日本政府に対する3つの要求事項」を掲げて、事件の解決を求め活動を続けました。それは、歴史の事実を多くの人に知ってもらいたい、惨劇の責任を明確にしてもらいたい、そして二度と再びこのような悲劇を起こさないでもらいたいという強い願いにもとづくものでした。弁護団も日本の支援者も、その実現のための歩みを止めませんでした。また平頂山惨案紀念館をはじめ撫順の関係者も支援を続けてきました。
 しかし、日本政府は今に到るまで歴史から学び、過去の中国侵略を率直に反省するに到っていません。中国の古いことばに、「過而不改、是謂過矣」(過ちて改めざる、これを過ちと謂う)とあります。歴史から学ばず改めない者は、いずれ歴史によって裁かれるに違いありません。
 時の経過とともに、莫徳勝さん、楊宝山さん、方素栄さん、楊玉芬さん、王質梅さんらは、みな他界されました。弁護団団長であった環直彌弁護士も逝去されました。しかし、裁判の十年、その後の十五年を通じて、培われてきた日中両国関係者の信頼関係は生き続けています。
 90周年に当たり、私たちは、理由もわからぬまま殺された平頂山住民の無念に思いをはせ、元原告のかたがたと環団長の遺志を引き継ぎ、平頂山事件の政治的解決、歴史の究明と普及のため今後も努力を続けていく決意です。新型コロナウイルス感染症がまだつづき、世界では戦火が絶えない不穏な情勢ですが、日中両国の信頼と平和がとこしえに続くことを心から祈念します。




 
 

戦犯たちの告白
 

 

 



























 

 

 

 
 
 

























日本民衆は10日、平頂山大虐殺90周年を記念し、歴史を忘れないように呼びかけた

 

 

 

 

日本民衆は10日、日本軍による中国民間人虐殺事件である平頂山大虐殺事件90周年を記念する集会を東京で開いた。中国と外国を揺るがしたこの悲劇は、日本社会ではほとんど知られておらず、日本政府は謝罪と補償を未だに拒否している。

 

 日本の市民団体は土曜日、東京で平頂山大虐殺90周年を記念する集会を開いた。日本の学者が悲劇の経緯や最新の研究成果について講演した。中国ではよく知られている平頂山大虐殺は日本では認知度が低い。 学者は、日本が中国侵略の歴史を避け歴史を修正する傾向を非常に心配している。

 駿河台大学名誉教授の井上久士氏:「日本の高校の教科書ではほとんど触れられていませんし、普通の日本人もほとんど知りません。日本は過去を心に留めておくことによってのみ、真の友好と相互信頼の基盤を築くことができるのです。」

 東京市民合唱団の、平頂山大虐殺を再現した合唱劇「再生の大地」も上演された。

 「再生の地」合唱団団長の姫田光義氏:「中国人に謝罪することは、我々が直面している最も重要な問題です。」

 日本で20年間にわたる請求訴訟を起こし、平頂山大虐殺生存者の正義を訴えた日本の弁護士は、訴訟の経過と困難について語った。 2016年、日本の最高裁判所は、最終審として生存者の請求を却下したが、平頂山大虐殺の事実は司法判断した。 しかし、日本政府はこれまで、無差別殺人の事実を認めず、謝罪もしていない。

 平頂山事件訴訟弁護団の弁護士 大江京子氏:「平頂山事件の歴史から学んだ教訓を踏まえ、日中共同宣言の精神を再確認し、武力による問題解決をしてはなりません」。

 今日会場に来た人たちの間では、日本社会が歴史的事実に目を瞑ってしまえば、歴史を反省したり歴史の教訓に学ぶことはまったくできないというコンセンサスがあります。 しかし、私たちはまた、会場に来た主に高齢者たちが次の世代に歴史の真実を伝える方法について、まだ大きな課題であることを観察しました。

 



 

「731部隊員だった池田苗夫元軍医の戦後の軌跡」


 
飯田市はなぜ、歴史をきちんと伝えないのか??
 

 

 731部隊元隊員の証言、飯田市平和祈念館が展示せず 市教委「事実関係に議論」

2022/08/17 11:59

 


 

 


元隊員が持ち帰った医療器具などが並ぶ飯田市平和祈念館の731部隊の展示。
元隊員の証言は紹介されていない

 

 

 戦争の悲惨さや平和の大切さを後世に伝えるため今年5月にオープンした飯田市平和祈念館で、関東軍防疫給水部(731部隊)の証言などを印刷したパネル展示が取りやめられたことが16日、市教育委員会などへの取材で分かった。住民有志でつくる市平和資料収集委員会が展示を求めていたが、市教委は事実関係が確定していないなどとして見送った。現在、展示は市出身の元隊員から寄せられた医療器具や人体解剖の医学書など十数点だけとなっている。

 

 取りやめた理由について、市教委生涯学習・スポーツ課は取材に「部隊の事実関係を巡ってはさまざまな議論がある。証言などを伝えたいという思いは理解しているが、公の施設としての展示は難しい」としている。

 

 市平和祈念館の展示は「戦争の恐ろしさ」「戦時下のくらし」など五つのテーマに分かれている。祈念館設置に向け、同委員会はこれまでに市教委と協力して戦時中の資料を集め、展示内容についても話し合ってきた。

 

 同委員会は「戦争の被害だけでなく、加害の歴史も伝えないといけない」と、731部隊が細菌兵器の開発を進め、捕虜となった中国人やロシア人に対して人体実験をしてきた―などとする説明文を作成。県内出身の元隊員4人の証言も文章にまとめた。市教委に証言などをパネル展示するよう求め、議論も重ねた。

 

 だが、市教委は遺品の展示のみにとどめている。同委代表の吉沢章さん(73)=飯田市=は「県内の元隊員らの証言を通じて地域と部隊との関わりを明らかにし、戦争の姿を伝えたかったのに」と割り切れない思いでいる。

 

          ◇

731部隊】 生物・細菌兵器の研究開発のため、1936(昭和11)年に編成された旧陸軍の特殊部隊。旧満州(現中国東北部)のハルビン近郊で秘密裏に中国、ロシア人らの政治犯や捕虜に非人道的な人体実験を繰り返し、多数を殺害したとされる。ペストやチフスなどの細菌を研究し、日中戦争で実際に使ったとされる。

久保田昇さんが熱く語る元731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)

731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」

2022/08/17 11:58
731部隊の少年隊に所属し、飯田市平和祈念館での証言の展示を打診されていた清水さん。入隊時の写真の拡大コピーも用意していた=7月12日、宮田村
 
731部隊を巡っては2002年、中国人被害者らが起こした国家賠償請求訴訟で東京地裁が戦時中に生物兵器の開発、研究を行い、細菌戦を行っていたなどと認定した。一方、03年に当時首相だった小泉純一郎氏は国会で、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」と答弁。部隊については終戦直後に文書が処分された経緯もあり、専門家からは貴重な歴史的証言の展示を見合わせた市教委の姿勢を疑問視する声が出ている。
 「自分たちの証言が紹介されなければ、部隊の事実が伝わらない」。戦時中、731部隊の少年隊に所属していた清水英男さん(92)=上伊那郡宮田村=はそう訴える。飯田市平和祈念館の開館前、市資料収集委員会から証言のパネル展示を打診され、了承。まだ14歳だった入隊時の集合写真も自費で拡大コピーし、展示用に用意した。
 清水さんは国民学校高等科を卒業後、731部隊の少年隊に配属された。主に見習い技術員として病原菌の基礎知識などを学び、「マルタ」と呼ばれた中国人やロシア人の捕虜の人体実験後の標本を見たこともある。日本の敗戦間近に「マルタ小屋」で多数の人骨を拾って・・・・
 
信濃毎日8月18日(斜面)


 
 
 
 
今年(2022年)4月2日に開かれた日本医学会記念事業では、「過去の過ちに学ぶ」で、731部隊のことが取り上げられた

731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。

 

第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会

第1分科会

 

大久野島戦争遺跡保存活動の歩みと今後の課題

『鹿島海軍航空隊跡地』の未来について

四国西南部の特攻基地ー第132震洋隊・土佐清水越基地跡を中心に

22日のフィールドワーク

平和記念公園と周辺の被爆遺跡を巡るコース

番外編

 

大久野島遺跡巡り

 

 
 
関連動画
 
 
 
 
 
 
 

日本は、なぜ、核兵器禁止条約締約国会議に参加しない??

 
戦前・戦後直後と同じ、トップは無責任!!
国が原発推進していて、事故があったら責任ないなんて全くおかしい??
責任を全部下に押し付けるのは、BC級戦犯裁判、226事件と酷似だ!!

それまで原子力を利用していたものの脱原発を表明する国が現れ、米国で新規建設のプロジェクトがなくなるなど、世界各国の原発利用は停滞することとなりました。(資源エネルギー庁のHPより)
 



 
世界には、核実験、原爆、原発労働者、ウラン鉱山の採掘者等で被ばくした人はたくさんいる!!
それが、次世代・次々世代に影響するとなると大変な数になる!!反原発!!
 
 
 
 
戦争では、何も解決しない!!即時停戦を!!
世界の食糧危機!!、世界の環境破壊!!生態系の激変!!貧困、虐殺、レイプ、人間不信!!

На войне ничего не решить! !! Немедленное прекращение огня! !!
Мировой продовольственный кризис! !! , Всемирное разрушение окружающей среды! !! Кардинальные изменения в экосистеме! !! Нищета, резня, насилие, человеконенавистничество! !!
 
У війні нічого не вирішиться! !! Негайне припинення вогню! !!
Світова продовольча криза! !! , Знищення навколишнього середовища світу! !! Різкі зміни в екосистемі! !! Бідність, бійня, зґвалтування, мізантропія! !!
 
Nothing will be solved in the war! !! Immediate ceasefire! !!
World food crisis! !! , World environmental destruction! !! A drastic change in the ecosystem! !! Poverty, slaughter, rape, misanthropy! !!
 
 
 

 

ウクライナに平和を!!
 
日本は、戦争の反省をしているのだろうか??
過去最大の防衛予算 歯止めなき膨張許されぬ
 
 

731部隊全景

 

戦争を停止する道を探れないのか??
 

No War!!Stop War!!
Нет войне!!Стоп Война!!
 
 
 
憲法9条を持つ日本はもっと停戦に向けて前向きに動いてほしい!!
 
War in the 21st century? ?? In the 21st century, a world without war!!

Война в 21 веке? ?? В 21 веке мир без войн!!
 
21世紀に戦争??21世紀こそ、戦争のない世界に!!
 
 

 
 
 
 
 
大元帥・現人神・昭和天皇と皇族の戦争責任を問う。
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??
 
重慶無差別爆撃

 

 

 
 
 

京都大学出版会(2022年4月10日発行)
 
もしかすると中国人の人骨も京都大学にはあるのでは??
丹羽雅雄弁護士の話:遺骨という問題は非常に大きな問題なんですよ。死者の尊厳ですからね。死者の尊厳ということは、生きている人の尊厳につながっているんですよね。当時の帝国大学は色々な人骨研究をやっていますからね。そうすると恐らく朝鮮半島の御遺骨の問題も当然あるはずです。リストにありますからね。
それから、台湾もあるだろうし、東南アジアもあるだろうし、そういう風に広がっていく可能性があるんですね。遺骨の問題は先住民の大きな長い歴史の中で国際的にも重要な問題になっていると・・・
 
 
 
遺骨収集には、清野謙次の影響が強くあった。清野は731部隊長石井四郎の強力な支援者だった。(病理解剖の最高顧問)
 
 

 
 
 

 
 
昨年のパネル展

 

 

 

 

2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
11月16日(火)
加藤哲郎講演)
731部隊の人達が戦前と同じ頭で行動していることに呆れます。真実を追求していくことにあきらめてはならないと思います。こういうことを通じて反省してこそ新しい日本の生き方が出来るのだと思います。
(60代、市内)
 





原告たちのあまりに理不尽な被害

『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子

 

 

 
                


 
 
 

自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。

 

『日本医学百年史』1957年1月1日の731部隊の記述

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236

 

 

「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。

昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年ノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。

勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。

 

 細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」

 

 
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
 

 

 

 
 
 

 
パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
 医学と人権を考える―

資料 2 1949 年 4 月 日(日にち記載なし)付「ジフテリア予防注射禍遺族に対する慰謝料早急 決定支払に関する件請願書」 

供覧 防疫課長 予防局長 細菌製剤課長 薬務局長 総務課長 会計課長 次官 政務次 官 大臣(原本の右から順に示します) 
ヂフテリア予防注射禍遺族に対する (タイプ印字) 
慰謝料早急決定支払に関する件 
請 願 書 
       
        予防接種禍
        遺 族 会(ゴム印)
           事務所:京都市東山区松原通大和大路西入 電話祇園局 3807 番
 
 (本文には読みやすいように句読点をうちました) 
 過般昭和23年11月4日付を以て、京都府衛生部並に京都市防疫課指示の下に、ヂフテリア予防注射に対して国民として接種の義務を全せし68名の死者、並に数百名の重患者の苦境如何なるものたりし事は其当時は申すに及ばず、今なお新聞紙上及多種の報道機関を通じて世の人世界の心ある人を周知せしめ恐怖の沼底に追込んだり、勿論親として万一を憂いて其接種を受くるに国家検定済なる注射液が不正なるワクチン製造の誤まれる製法を良く検査せずしての結果、我等68名の愛児を二度と戻り得ぬ、今日此の事実は国家に責任なくしていづれに有りや全く以て人命保護上非道なり、父母とても接種後速刻反応を認めて医師並に保健所及病院の手当を求めたり、父母一家中此の療養と看護に日夜没頭し精神的肉体的に努め職場を退き一心打込んで努めし甲斐なく、其当時関係当局はその結果責任の究明に力念致され、治療とその全治療策の時期を全く失したり
 
 
 
 

 
小津安二郎も毒ガス部隊だった
 

 

森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!!     
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!

 

 
     

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。

 

 
日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」

 
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コ
レラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が この事件は、冤罪の可能性が高いことが長らく多くの識者によって指摘されてきたが、現在でも再審請求を続けている平沢弁護団が所蔵する捜査資料『甲斐捜査手記』の分析から、非常に重要なことが浮かび上がってきた。
 それは、帝銀事件捜査陣は、旧日本陸軍の秘密戦部隊(731部隊登戸研究所、毒ガス研究をしていた六研、中野学校など)の実態を詳細に明らかにしていたが、米軍はそれらの部隊が行なった人体実験データを入手するために、731部隊をはじめとする部隊関係者の多くを免責・保護し、さらには関係者に捜査当局にも旧軍の秘密を話さないように約束させたということである。開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラチフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置


 

 



戦争犯罪と戦争責任を考える(帝銀事件捜査から)山田朗
(『日中友好新聞』2022年2月15日号より)
 
 帝銀事件というのは1948(昭和23)年1月26日に起こった銀行強盗殺人事件である。12人が毒殺されるという日本犯罪史上でも特異な事件だ。この事件は、同年8月に容疑者として画家・平沢貞通が逮捕され、裁判の結果、1955年に最高裁で死刑が確定した。
 しかし、平沢犯行説には多くの疑問があったため死刑は執行されず、さりとて釈放もされず、平沢は再審請求をしながら1987年に95歳で獄死した。

 
 
 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。

 

 

 

 

 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

             伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。

 

実験医学雑報20巻 第7号(1936年)

 

第80回講習終了式に際し講習生並びに全職員に告ぐ

              宮川米次

講習生諸君

  科学の進歩の速やかなることは今更申す迄もありませぬ。Ⅰ日怠れば1日後れるのであります。現在吾が日本国にはそれぞれ立派な専門雑誌が出来ております。その雑誌の2,3特に信用するもののそれを徹底的に読破し、了解し、会得し、吾物にすることは誠に大切なことであります。その際新しいと思いましたことは、必ずその要点を書留めておき、決して読みっぱなしにしないことであります。又行住坐臥の内に心づいたことは、直ちに書き留めておいて、之を後に整理しておく様にもしたいのであります、これが吾等が日常の最もよい指導者の1つであります。それでも尚疑問があり、難解の事件が発生したならば、ご遠慮なくお問い合わせをお願いしたい。吾等伝研人はそれぞれ研究してその解決に当たって行きたいと思って居ります。

 
 

 

 

翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田

で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??
 

浜一中大福餅事件

                
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浜松一中の慰霊碑

大牟田の慰霊碑(裏)

 

(碑文)

「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」

 

<三池の冬1997 その2>より

わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)

この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。

 

日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業

北宏一郎

 

三井鉱山三井染料工業所の毒ガス生産

 

三井鉱山50年史稿より)

1938(昭和13)年 CA剤陸軍の400t

         海軍には1937年9月、38年3月、8月、39年10月 4回2号中間薬(フェニル亜砒酸)完納

 

1937(昭和12)年9月 陸軍からグリコール1号、2号の注文

               海軍から3号中間薬(オクゾール)の注文

1938(昭和13)年1月までに増産設備完成

           生産はグリコール1号400.8t、グリコール2号216.7t、CA剤522.5tになる。

(注)イペリット製造中間製品

     グリコール1号(チオグリコール)、不凍性イペリット(グリコール2号)

     グリコールの原料エチレンは東洋高圧大牟田工業所

     嘔吐性毒ガス(あか、2号特薬)中間薬はシモリン(アサヂン、CA剤)海軍2号中間薬

 

1941(昭和16)年三池染料工業所は三井化学となる。

民需から軍需品生産への急傾斜と有機化学工業での軍需品中心の新規事業着手へと突き進んだ。化学兵器原料の設備拡張が著しい。

(三井事業史本篇第3巻447頁)

1941(昭和16)10月予算595万「7C2号」(チオグリコール不凍・陸軍)年1200t玉名工場内

12月予算468万「3号中間薬チオグリコール」海軍年1000t、三池染料内

昭和16年11月14日艦本機密第1号10871〉

(三井事業史本篇第3巻 448頁)

 

 

 
科研を視察する昭和天皇(中央)。久村所長が先導している(元科研職員の小野田悦郎さん提供)
 
 

   





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認
 定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
 日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
 この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
 今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
 はないのか?
 
 

 

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
 
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 
 
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

 

 
 
第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

原告らの主張 (別紙3)

第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

原告らの主張 (別紙3)

日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)

第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)

第4 日本民法に基づく謝罪及び損害賠償請求

2 国家無答責の法理が適用されないことについて

ア 現行民法が施行されるまでの間、司法は国家の賠償責任を否定していた訳ではない。立法者らは、かかる状況の下で国の賠償責任について検討を重ね、ボアソナード民法草案393条に関し、国の賠償責任が否定される範囲を裁判所の判断に委ねることとしたのである。ところで旧民法は結局施行されず、その後現行民法が成立施行されることになったが、現行民法は第5章に不法行為の規定を設け、他に、旧憲法61条と行政裁判法16条の規定が存在することになった。しかし、後者の各規定は「国家無答責」とは何の関係もなく、民法の規定中にも国の賠償責任を否定した規定はない。結局戦前においては、成文法上は国家無答責の法理を明記した法文は存在していなかった。このように、国家無答責の法理は判例上認められてきた法理に過ぎない。そして、その法理の内容は実際には動揺・変遷を重ね、国家責任を拡げる方向で推移してきたのである。

 

731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

 

 
 
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

 

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??

 

 

 

           
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2013年5月12日、安倍晋三宮城県東松島市航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

 

           

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)

 

 

 

 

 

 日本の中国東北侵略から91年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 



三月十一日

夜と言っても夕暮れ 営庭に集まって軍歌演習あり。なんでも歌う時だけは子供だ。之が二つの輪を作って外まわり内まわり音を取りつつバン声張り上げる その声は遠くもないが八卦溝部落に流れてゆく

御年二三歳の青年とは思へない無邪気な若さだ。夜は夜で娯楽会あり 週番下士気合をかけれど兵隊中々踊らず?無心に流るる星や終夜光る電燈に暗く描き出されし中学校や満鉄病院や官舎がしっとり濡れた。夕闇に写っている又してもむなしく一日は流れた。丁度星の様に。

 

 

「ずっと父が嫌いだった」

 

 
 
 
軍都広島での物語

 

原爆詩集
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。
 

 

一九五〇年の八月六日

      だがやっぱりビラがおちる

ゆっくりと ゆっくりと

(ひさし)にかかったビラは(ほうき)をもった手が現れて

丁寧にはき落し

一枚一枚 生きもののように

声のない叫びのように

ひらり ひらりと

まいおちる

 

 

 

 

 

 


 

 

 
メアリーが伝えるヒロシマ

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』

731研究会編

 Ⅰ 731部隊

ノミの大量生産

細菌の毒力試験の生体実験を行った

篠塚良雄

731部隊・少年隊

(略歴)

1923年生まれ

1939年 少年隊に入隊(~43年)

1944年 徴兵により関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊

1945年 関東軍125師団軍医部兵長

1946年9月 東北人民解放軍独立師衛生部に混入

1952年6月 河北省永年県において逮捕される

1956年   帰国

 

■この証言は埼玉(浦和)731部隊展(1994年10月)の『報告集』よりまとめたもの。

 

731部隊

ここに着いて間もなく、部隊の車が迎えに来ました。ここから731部隊があった平房迄25㎞ぐらいあったように記憶しています。ハルピンから香坊を過ぎますと軍用道路に入りまして、車はそこをひた走りに走って行きました。

 平房の731部隊本部に着いてまず目に入ったのは、「関東軍司令官の許可なき者は何人といえども立ち入りを禁ず」と書かれた立て看板でした。建物の回りには濠が掘られ鉄条網が張り巡らされていました。「夜になると高圧電流が流されるから気を付けろ」という注意が与えられました。

 

日本軍政下香港(1997.7.27)

 

●『論争731部隊
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行
 
 
 
第2 731部隊に関する研究状況
 
二 1983(昭和58)年以前の731部隊に関する研究状況
 
2 1970年代及び1980年代初期の研究状況
 

(3)『消えた細菌戦部隊』について

 常石敬一『消えた細菌戦部隊』も、731部隊の全貌を捉え記述した出色の著作であった。本書は『ハバロフスク公判書類』、『大東亜戦争陸軍衛生史』(陸上自衛隊衛生学校、1968―1971年)、『軍医団雑誌』等を資料として、731部隊の成立前史、部隊の編成、生体実験の実施、特移扱の実態について明らかにしたが、特に石井四郎、北野政次に焦点を合わせ、彼らの個人史も視野に入れ、731部隊との関りと彼らの果たした役割を解明した。

 
 
 
 
 
 

 














 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

消せない記憶「元軍医たちの謝罪の旅」

 

●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)


Ⅰ 第1次世界大戦の衝撃 1915―1930


 2 毒ガス使用禁止国際条約への対応


 
ジュネーブ一般軍縮会議準備会議


 1930年11月、イギリス代表は、1925年のジュネーブ議定書やこの軍縮条約案が禁止しているガスの中に催涙ガスが含まれるかどうか、各国の意見を質してきた。そこで、幣原喜重郎外務大臣は陸海軍の見解を問い合わせたが、その返答は、陸海軍共に、催涙ガスも禁止されていたガスに含まれる、というものだった。

 
 

 

 

海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)



 

 

 
 
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!
 
 
略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
 
 

 

 
 
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市船橋市内)

 
 
 

 

 
 

 

 

 

 
 

 

 

 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第13章  毒ガスは消えず

埋めるー中国の毒ガス弾に対する処理

当時、「北満製鉄所」が派遣した人員は、古い砲弾を買い取ると、砲弾を外して、中の爆薬をを取り除き、製鉄所に持ち帰って精錬していた。ところが、思いもかけぬことに、砲弾の中には、分解すると中から息の詰まりそうな臭いを発するものがあったのだ。中の液体に触れて「火傷」する人もいた。こうして、人々は日本軍の遺棄した毒ガス兵器にようやく気付いたのである。

 

SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用



 



 
 
 

 

 

 

 

 
 
●『三光』     中国帰還者連絡会
日本鬼子(リーベンクイズ)

 

核時代39年(1984年)5月初版発行

糧穀の略奪

(冷酷非情な取り立て)

 

引地 章(ひきじあきら)

警察署長 警正

(略歴)

学歴 高等小学校卒業

所属 旧満国 図們警察署

年齢 54歳

 
聶は、中国人であり、中国農民の生活が、どんなに悲惨なものであるか、この強盗的供出が、どんなに罪悪的なものであるかを百も承知しているのである。そして農民の反抗が、いかに正当なものであり、またいかに熾烈なものであるがも充分知っていたのである。
「いま、検索隊が着きました。それから警正殿、太平飯店で村長や商務会長が、皆待っています。今晩は、警正殿が正賓(せいひん)で大した準備がしてあります」
聶は、いやしい笑いを浮かべながら引地の顔を覗き込むようにした。
「うん、検索隊の幹部が揃ったら出かけよう」と答えた引地は、署長室に入ると、どしんと乱暴にソファに腰を下ろした。煙草ケースから前門を1本取り出して火を付け、いらいらした気持ちを何とか押えようとしている。
 
 

 

 

 

2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 

 

 

    

 

 

    

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日米安保条約自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
 

 

 

●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

 

 
日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

藤井治夫著

 

第3編 主要極秘文書

1 三矢研究

昭和38年度統合防衛図上研究
三矢研究

38年2月1日    統裁部

昭和38年度統合防衛図上研究(三矢研究)実施計画

5 研究実施の要領

 (3)状況下の研究実施要領

 イ 想定及び状況
  (イ)研究開始時の想定

     別紙第3

(ロ)研究の各結節に対する状況
     別に定める指揮要領に基き各動ごとにこれを示す。

 ロ 研究は統裁部の指導による一方統裁によってこれを進める。

 ハ 後段合同図上研究の実施に必要な規定及び管理事項は別に定める。

 

  

 

  1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊

 

 

 

第4代衛生学校長

 

『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1

 

 

 

金原節三と細菌戦

 

金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。

 

細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。

 

金原節三と武見太郎

 

金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。

 

※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!

 

軍事史研究』2010年9月

軍事史関係史料館探訪(56)

陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館

喜多義人

 

収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。

 

 

●『BC兵器』久保綾三著(1969年)

 

Ⅳ 安保体制下の生物化学兵器

1 自衛隊の基本戦略

分かりにくい犯人

  しかしながら、これらの事実は真実であり、無視したりごまかしたりすることのできないものである。

 次々と開発される強力な兵器は、通常の知識と軍事的、物理的な兵器の破壊力及び殺傷効果との間を気が遠くなるほど引き離してしまうものである。例えばごく少量の放射性物質や化学剤を上水道の源に混入しておくだけでその殺戮効果は、何百万人にも及ぶということが可能である。

 
 

 

 

 

第5代衛生学校長

 

井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身

 

1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】

 第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。

  井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。

 又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。

東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。

※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。

1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。

 

南方軍防疫給水部(岡9420部隊)

 

イタイイタイ病を究明した男 萩野昇 

 
昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より
 
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。

 

 

 




 

 

 

昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

 

 

昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

 
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!  

     


 

 

 

第1部 皇太子の教育

1901(明治34)年―1921 (大正10)年

第3章  現実世界に向きあう

 

 皇太子は、政治面で教師たちを満足させるような態度をおのずと身につけていった。この時期の彼の社会観は、杉浦に提出し、それが宮内大臣牧野伸顕に伝わって彼が日記に書き留めた作文からほぼうかがえる。連合国とイツとの講和条約が最終的に発効したのち、1920年1月に書かれた2ページの短い作文「平和成立の詔勅を拝読して所感を述ぶ」で、19歳の皇太子は、「政事を指導する大任を帯びたる」将来を思い、「御父宮様」の文言を引用する。この文章は、「過激思想」を警戒し、軍備の意義を認める一方、「永久の平和」の実現を望む青年の姿を示している。彼の第一の論点は次のとおりである。

 

 

日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

 

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 

 

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

 

RENUNCIATION OF WAR Article 9.

 

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

 

 

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

 

 

 

 

 

 

 

 



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

 

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
 
●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
 
※私が考える、今の異常気象の要因は

 

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、戦争、

3、都市化したコンクリートアスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?

 

 

「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え

 

 

 

核兵器禁止条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

核被災に苦しむウイグルの人々

月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子

 

・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。

 
●核実験

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

地球を破壊する核実験

 

年月日          名称(実験名)            核出力 (kt)     実施国 重要性

1954年3月1日 キャッスル ブラボー 15,000 アメリカ合衆国 水爆(人類史上初の多段階、実用兵器)、放射性降下物事故(第五福竜丸やその他延べ1000隻が被曝)

1955年11月22日 RDS-37 1,600 ソビエト連邦 水爆(ソビエト連邦による初の多段階、実用兵器)

1957年11月8日 グラップル X 1,800 イギリス 水爆(イギリスによる初めて成功した多段階)

1960年2月13日 ジェルボアーズ・ブルー 70 フランス フランスによる初の原子爆弾

 

 

 

メアリーが伝えるヒロシマ
核実験の人体実験
核被災と核兵器禁止条約



 

 

 
 
 
 
核融合もすべきではない!!

 

 

 
 
 
なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「反原発!!」と叫ばない!!
 

 

       

      

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

 
・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。
 
2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。




水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した。


 

 




 

 



           











 

 


 
 
 
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!