731からフクシマまで

731部隊の免責→アメリカの核政策に追随!!

細菌戦の系譜!!

                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

首相の伊勢神宮参拝反対!!

大元帥・現人神・昭和天皇と皇族の戦争責任を問う。
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??
 
12月17日は、南京入城式典が行われた。
虐殺は、その前後で行われた!!

 

映画「スパイの妻」と731部隊(2021 10 16加藤講演第2回)

川崎の徴用工 故・金景錫の闘い お話:梓澤和幸弁護士
2021 9 25加藤講演第1回目
絶望的な核開発!!
トラウマ
●毒ガスの歴史(フリッツ・ハーバー)

●2021 9 17 浅井基文講演

『BCGと人体実験』 美馬聡昭著

731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
防疫研究室と昭和天皇の関係
1940年と2020年の東京オリンピック
731部隊と国立感染症研究所の問題
731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
ABC企画委員会
731部隊・100部隊展
記憶の継承を進める神奈川の会


20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」

 







原告たちのあまりに理不尽な被害

『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子

 

 

         昭和への挽歌   野崎忠郎
 
                


 
 

 
自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。

 

『日本医学百年史』1957年1月1日の731部隊の記述

 

日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236

 

「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。

昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年ノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。

勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。

 

 細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」

 

 
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
 

 

 

 
 

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回

 

731部隊と人権ー裁判から考える

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回

 

 
パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
      医学と人権を考える―
 

 

 
 
・1954年に起きた第5福竜丸事件では、被ばく船は800隻もあったと言われているが、第5福竜丸一隻だけとしたのも宮川教授である。
731部隊レントゲン班に所属していた宮川正東大名誉教授
経歴 
1913年 広島県呉市で生まれる
1937年 東京帝国大学医学部医学科卒業
1944年 731部隊レントゲン班  (終戦まで)
1946年 逓信省病院、国立東京第一病院勤務
1953年 横浜市立大学医学部教授に就任
1956年 東京大学医学部放射線科教授に就任
1973年 東京大学を停年退職、東京大学名誉教授となる。埼玉医科大学教授に就任
1978年 埼玉医科大学放射線医学教授に就任
1980年 埼玉医科大学附属病院副院長を兼務
1983年 埼玉医科大学附属病院院長に就任
1989年 埼玉医科大学学長代行に就任
1993年 埼玉医科大学名誉教授となる
2002年 逝去 88歳
宮川教授は、731部隊に所属していた前歴をずっと隠していたが、何と東大の定年退官直前にそれがバレて、退官記念講義の場で学生から厳しく追及されるハメに陥った。
 
 
 
 

隠された毒ガス兵器

 
小津安二郎も毒ガス部隊だった
 

『従軍日記』 小津安二郎

森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!! 
    

※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!

 

「公文書管理を考える」(4) 磯田道史・国際日本文化研究センター准教授

 

  新宿・謎の人骨100体・731部隊【歴史解説】

1989年7月22日、新宿で謎の人骨が大量に発見された

歴史改ざん(「風を読む」)

 

     

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。


日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」


1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラチフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 

731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。

 

 

NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日

 

 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

1929年12月24日~1930年1月4日、長與又郎、1930年4月22日~?宮川米次、1930年4月23日~?宮川の娘婿の岡西順次郎が中国へ出張しているが

何をやっていたのか?宮川の支那漫談とはどんな内容なのか?

 

実験医学雑誌第18巻雑報

18巻6号(1934年)

 

長與博士寿像除幕式

除幕式の当日には主賓として長與先生を始めご家族の臨席を得来賓として、粟屋文部次官、小野塚東大総長、入澤、林、北島、佐多博士等医界の長老、名士、学部関係者、学友会員等約400名折柄の雨中にもかかわらす出席の上新講堂に於いて厳粛なる除幕式が挙行された。

午後2時開式、河本委員長より経過報告があり、次いで長與先生令息弘君の手によって胸像の幕が除かれ、満場拍手を以て先生の寿像をを迎え、次いで宮川所長の式辞、島薗、秦、両博士の祝辞、長與先生の答辞があって午後4時目出度く式を終え、更に新館屋上テント内に於いて祝杯を挙げた。尚式後来賓を始め一般参観者に、研究室を開放して参観に供した。

 尚当日の長與先生の答辞、宮川所長の式辞は別項に揚げ永く記念とすることにした。

 

 

 
 

 

  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

   

この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

 

 

第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

当事者目録(別紙1)

湖南省常徳市

第1事件原告 何英珍

第1事件原告 方運芝

第1事件原告 方運勝

第1事件原告 馬培成

第1事件原告 柯高茂

第1事件原告 朱九英

第1事件原告 高緒官

第1事件原告 李玉仙

第1事件原告 李宏華

第1事件原告 李登清

第1事件原告 李安谷

第1事件原告 李安清

第1事件原告 王金山

第1事件原告 王長生

第1事件原告 丁年清

第1事件原告 李麗枝

第1事件原告 劉学銀

第1事件原告 亡黄華清訴訟承継人

       黄土〇

第1事件原告 熊金枝

第1事件原告 石聖久

第1事件原告 王開進

第1事件原告 〇梅林

第1事件原告 亡石開苹訴訟承継人

       石聖紅

第1事件原告 亡熊志成訴訟承継人

       熊来紅 

第1事件原告 向四秀

第1事件原告 亡文佑林訴訟承継人

       石聖吉

 

 

 

731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

     731部隊の行なった細菌戦


 

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難

 

           

2013年5月12日、安倍晋三宮城県東松島市航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           

731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!

731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記

 

 

 

 

 日本の中国東北侵略から90年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

「1931」斉藤準太郎の日記

四月十六日

 

曇り 薄ら寒し 午前八時半起床 中隊の使役巡察あり 第一五列車。

十五日の午後十時ニ十分駅警察派出所(遼陽警察署)西巡査(日本人)○○巡補(名前はわすれる非常に親しみの深い日本人と変わらない位立派な支那人)第十八列車警戒の為に乗り、彼の巡補は其の役目に終わり一旦派出所に帰り書類の整理をした後 自宅に(派出所のすぐ裏)引き上げた時 自宅の入り口の境の中に待ちかねたらしい怪しい二人組支那人 二発の銃声に 西巡査駆け付けた時 最早人影なく青く倒れているのは巡補ばかり。拳銃はもちろん取られて 二発の弾は(長銃にて撃たれ三八式の弾より非常に大きい弾なり 鞍山満鉄病院にて切開の結果判明)胸部大腿部いずれも猛貫にて人々に惜しまれつつ、遂に死す

 

其の後 賊は身を隠すために約百閒ばかり離れた支那人農家に入り込み 夜の明けるのを待って逃走したとかいう。未だ捕らわれずにいる おそらく捕らわれる機会はないであろう なぜならば国が違うし 連絡機関が少しもないため一度附属地外に出れば 其の後事件でも起こさない限り不明となるであろう。

その馬賊の目的は勿論明瞭すぎる位明瞭である。来るべき高粱繁殖期に思ふ様猛威を振るはんとする其の下準備に他ならない。

其の来るべき時に出たならば、必ず国こそ違え 日本の行政権を守る日本警察の為に非常に働いた巡補である 安心して安らかに眠りに落ちるように 仇を討ってやりたい。

 

人情に変わりはないもの。再び首山の駅にあの頼もしい偉大な体の持主が見られないのは残念でならない。終りに結びとして死者の冥福を慰めたい。

こんな事件があった事を悲しむが、之も植民地政策の為に倒れる雄々しい犠牲のひとりであると思はば、

なおさらにその英雄的な惜しさが沁みてくる(完)

 

 

 
 
軍都広島での物語

原爆詩集
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。
                                              

としとったお母さん

 
 
若いとき亭主に死なれ
さいほう、洗いはり
よなきうどん屋までして育てたひとり息子
大学を出て胸の病気の五、六年
やっとなおって嫁をもらい
孫をつくって半年め
八月六日のあの朝に
いつものように笑って出かけ
嫁は孫をおんぶして
疎開作業につれ出され
そのまんま
かえってこない
あなたひとりを家にのこして
かえって来なかった三人
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  日本は、日中戦争国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

 

 

Ⅱ 関連部隊・支部

香港難民の大量虐殺

ゲルトネル菌を飲用湯に投入して・・・・

 

丸山茂

8604部隊

 

(経歴)

1917年生まれ

1938年 朝鮮・龍山の歩兵79連隊に教育召集

1939年 南支那派遣軍防疫給水部(波第8604部隊)に転属。細菌検索班に所属

1943年3月 除隊。帰国

1945年 再召集

1945年8月 朝鮮で除隊

1945年10月 帰国

■この証言は731研究会の学習会での発言(1993年11月)、『短歌草原』(1992年8・9・10月号)所収「いかなる美名でも戦争への道は悪だ」よりまとめられたもの。

 

不審なグラフ
昭和17年(1942年)4月、深圳から広東市の部隊本部に戻されましたが、それから幾日もせずマラリア調査の作業のために灘石頭へ、兵・軍属計3人で派遣されました。それで香港作戦以来半年ぶりにMに会ったわけです。Mは、昭和13年(1938年)11月の召集以来の戦友で、南スホ転属後も1科で一緒に仕事をし、内務班も同じでした。
 収容所の南スホの担当者はM1人で、収容所の所長の役をやっていたようです。私の仕事は、ボウフラ、蚊の採集、そして飼育と繁殖などひまな仕事でした。ボウフラ採りに飽きると、田んぼの草をつんだり、魚を釣って夕食の膳を賑わしたものです。

 

 

 

 

●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編

 

江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳






Ⅰ東北

 

2 華北

4 山西

 

証人の証言に対する審問記録(1954年12月28日)

山西省惇(忄が山偏)県人民検察院検査員冀水は、1954年12月28日、本県城関東街に於いて、賀銀柱が日本人戦犯吉沢行雄が八路軍を解剖した行為を証明していることについて、審問を行った。証人賀銀柱、男、33歳、職業農民、住所本県東街。

問:1944年9月、日本軍が本県倉街に於いて八路軍を解剖した情況を知っているか。

答:当時、私は日本軍の造第3589部隊で苦力をやっており、日本軍は河東の孫家庄、中庄村からわが軍の捕虜4人を同部隊に連行し、衛生室前のエンジュの木の下に縛り付けておいた。その晩、1人が逃げた。数日過ぎて、日本軍はこの3人を同部隊の病院に連れて行き、2人を解剖し、小笠原中士(人名?中尉?)が1人を殺した。(下略)

(1)119-2、732、3、第50号

 
 

 

 

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第7章なぜ日本軍は毒ガス兵器に依存して戦いを行ったのか

 

3 毒ガス兵器から見た日本軍の諸相

日本軍と毒ガス兵器⑤ 中国戦線の日本軍の実態

第5に、中国戦線に派遣された部隊や兵員の資質の問題も重要である。兵士や部隊の質が良ければ戦闘力が高く、陸軍の軍事思想・戦術思想を体現することが期待できるはずである。

 戦前の日本には徴兵制があり、満20歳の男子は徴兵検査を受け、現役・第1補充兵役・第2補充兵役・第2国民兵役・兵役免除のいずれかに選り分けられた。甲種合格で現役として入営した場合は、2年間の軍隊生活を送った後、5年4か月の予備役に、次いで10年間の後備役となる。予備役・後備役は普段は日常生活を送るが、戦時には軍隊に召集されて戦地に派遣される。

 

 

 

第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。

百年の悲劇は、ここから始まった1

 
 

 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

 

第8章 無辜の被害者

河北井シン(チンシン)県老虎洞 毒ガス殺人事件

 

九死に一生を得た生存者、范羊羔の回想

私たちはばらばらに這って行った。洞の口からいくらも行かない所で私は日本兵に見つけられ、『パン、パン』と2発弾が飛んできた。私はうつ伏せになって死んだふりをした。日本兵が遠くへ去ると、また這い上がって、東の尾根に向かった。胸は燃えるよう、喉は煙にまかれたようで、とにかく水が欲しかった。よろけ転びながら、東窪里の山間の掘っ建て小屋にたどり着いた。鍋の中に大根を煮たスープのようなものがあるのを見つけた。一気に2椀飲んで、一息つくと、漸く少し力が出た。頭も少しはっきりして、立ち上がることが出来た。

 

SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用



 



 
 
 

 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


 

 

 

 

●『三光』     中国帰還者連絡会
日本鬼子(リーベンクイズ)

核時代39年(1984年)5月初版発行

 

日本鬼子(リーベンクイズ)

 

三神高(みかみたかし)
教育助手 伍長
〈旧部隊名〉独立歩兵第42大隊歩兵砲中隊
 

 

 

「畜生ッ、強情者ッ」パシッ!「言わなきゃあ、言わしてやる」帯革は幾度もうなって食いついた。そのたびに農民は力を入れて全身をくねらせた。
「こら、民兵だろう、お前は」またひとしきり帯革がめちゃくちゃに飛んだ。皮膚が破れ、血が滲み、切れた唇から鮮血がたらたらと胸に線を引いて流れた。
「我不知道!(俺は知らない!)」ぐっと歯をかみしめて射貫くような農民の眼が光った。
「なにッ、知らんッ?」殺気だった分隊長が胸が又振り上げられようとしたが、その腕は農民のその形相にぐっと食い止められたために、たじろいで下ろされたように三神は思った。三神は手に汗をべっとりと握っていた。そしてゴクリと生唾を呑み込んだ。農民の体はサッと力が抜けたようにその場に崩れ、苦しいうめきが三神やあたりの兵隊たちを押さえつけるように流れた。
 
 
 
 
 

2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 

 

 

    

 

 

    

日米安保条約自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!


日本の毒ガス


 

 

 

在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。

 訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。

 米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。

 CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。

 今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。

 
*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。
 

●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

- 731 部隊関連資料の情報公開裁判の傍聴支援をお願いします ー 
 
 
 
 
(来年1月も証人調べが続きます)   
 
第33回:2022年1月14日(金)13時30分~  103号法廷 衛生学校図書室図書係2人の証人尋問予定
 
第34回:2022年1月24日(月)13時30分~    103号法廷 衛生学校彰古館担当者2人の証人尋問予定
 
 
 
日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

            藤井治夫著

第4章 機密国家の復活

3 刑法改正による機密保護

 拡大される公務員の機密漏示罪

  刑事法特別部会で決定された改正刑法草案は72年3月に公刊されているが、これに付された説明書は機密探知罪を設けなかった理由に触れ、次のように述べている。このなかで「特別法で詳細な規定を設ける」ほうがより適当であると指摘されていることを見逃がしてはならない。

「審議の過程では、日本国の安全を害するおそれのある防衛上又は外交上の機密の保護を十分にはかるため、この種の機密を不法に探知し、又は収集する行為、あるいは、外国の利益をはかり、又は日本国の利益を害する目的で、これを外国に通報する行為を処罰する規定を設けるべきであるとする意見があった(第1次案136条A案)。しかし、これに対しては、『機密』の概念が不明確で乱用の危険があり、新聞記者等の取材行為にまで適用することになると、憲法で保障された表現の自由を侵すことになるおそれもあること、この種の機密を保護する必要があるとしても、機密の範囲を具体的に限定して乱用の危険をなくするためには、特別法で詳細な規定を設けることとする方が適当であること、外国から武力の行使があった場合に防衛上の機密を探知したり又は通報したりする行為は、外患援助(第127条)として処罰の対象になることなどが指摘され、刑法には機密の探知等に関する特別の規定は設けないこととされた」(172ページ)。

 

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊

 

 

 

 


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)

Ⅰ 生物・化学兵器を告発する

4、日本本土も汚されている

防衛庁長官の珍答弁

 

68年2月の衆議院予算委員会で、増田防衛庁長官が「クロルアセトフェノンは、日本の法律の毒劇物取締法に入っておりません。したがって毒ガス問題ではないし、催涙ガスである、こう考えております」という珍答弁をしているわけだが、これと同じ考え方である。

「毒性」があるのか、ないのかという質問に対して、法律で規定していないから毒ガスではないといったような馬鹿げた答弁が国会の場で大臣の口から出るくらいだから、相模原補給廠での毒ガス問題は一向に解決されるはずもないのであろう。国内法がそれを劇毒物に指定しようがしまいが、第1次世界大戦におけるイープルの闘いの塩素ガスによる2万人に上る死傷の事実と、塩素ガスの持つ激しい毒性に何らかの変化も起こるはずが無いのである。

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昭和天皇の戦争責任を問う!!


天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。


 


 



昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

 

 

昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!


戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
  

     



4部 内省なきその人生

1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年

 

第十七章  静穏な晩年と昭和の遺産

首相の竹下登は公式の弔辞を発表した。その中で彼は、20世紀後半の日本の政治が前提にしてきた2つの虚構を繰り返し強調している。竹下によれば、「大行天皇」(天皇が死去して、「昭和天皇」などの追号がおくられるまでの暫定的な敬称号)は常に平和主義者、立憲君主であり、62年間の激動の時代を通して「世界の平和と国民の降伏をひたすらご祈念せられ、日々実践躬行」した。「お心ならずも勃発した先の大戦に於いて、戦禍に苦しむ国民の姿を見るに忍びずとの御決心から、御一身を顧みることなく戦争終結のご英断を下された」。

 翌日、56歳の皇太子明仁天皇の任務を引き継いだ。彼は浩宮礼宮紀宮という3人の成人した子の親で、その践祚には、昭和天皇の時のような難題はなかった。短い儀式の中で、彼は日本国憲法を守ると述べた。

日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

RENUNCIATION OF WAR Article 9.

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

 

 

 

 

 

 

 



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!


※私が考える、今の異常気象の要因は

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、都市化したコンクリートアスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

4、自動車社会の排ガス

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?

 

 

核実験

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

地球を破壊する核爆発・核実験

 

年月日          名称(実験名)            核出力 (kt)     実施国 重要性

1998年5月11日 シャクティ II 12 インド インドによる初の原子爆弾実験

1998年5月28日 チャガイ-I 9-12? パキスタン パキスタンによる初の原子爆弾実験

2006年10月9日 北朝鮮の核実験 (2006年) 1.5-15? 北朝鮮 北朝鮮による初の原子爆弾実験

2010年11月18日 ポルックス ? アメリカ合衆国 アメリカによる「Zマシン」と呼ばれる装置を使った初の臨界前核実験 このZマシンに関してはこの後2014年11月までの間に12回の実験が繰り返されている

2013年2月12日 北朝鮮の核実験 (2013年) 10-45? 北朝鮮 北朝鮮による初の強化原爆実験?

2016年1月6日 北朝鮮の核実験 (2016年1月) 10? 北朝鮮 北朝鮮による初の水素爆弾実験(懐疑的な意見もある)

 

 

 

<a href="https://www.youtube.com/watch?v=yVlnVNSgHJA">水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁アメリカ)</a>

<a href="https://www.youtube.com/watch?v=f_2ps6RIR9U">「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】</a>



 

 
 

 「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】




●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future




核融合もすべきではない!!

核開発に反対する物理研究者の会通信
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について


なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!

       

      

 

原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。

封印された原爆報告書




水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した。

 

 

 

 

 

 
 
 

 

           

JCOの臨界事故


福島第1原発事故

核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!

日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病


731部隊(unit731)
昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!