731からフクシマまで

731部隊の免責→アメリカの核政策に追随!!

細菌戦の系譜!!

 

1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??
 

浜一中大福餅事件

               

浜松一中の慰霊碑
 

大牟田爆発赤痢事件(昭12.9.25)は計画された陰惨極まる国家犯罪である!! : 真因は毒ガス・赤痢菌による人体実験

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大牟田の爆発赤痢の慰霊碑(表)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大牟田の慰霊碑(裏)

 

(碑文)

「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」

 

<三池の冬1997 その2>より

わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)

この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。

 

 

戦時下
大牟田爆発赤痢事件
隠蔽された企業犯罪、国家犯罪

                    北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)

 

 

何故これ程の「赤痢患者」(大牟田市の人口は約11万人、罹患者は約2万人)が出たのか。
この原因は軍が持ち込み、県が住民に配布した「赤痢予防薬」にある。
数日後「赤痢予防薬」9万人分が住民に渡されそれを服用した住民が次々赤痢を発症したわけです。
 
赤痢予防薬は陸軍軍医学校満洲事変から1年の間に作ったワクチンの1つで、20万人分が作られた。
(石井四郎考案の赤痢菌大量生産装置が使われた)。この結果、大牟田市民からいろいろの種類の赤痢菌が検出されることになる。
志賀菌、駒込B型異型1号、陸軍衛生部Y菌、北里異型Ⅱ、川灘?菌など。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
科研を視察する昭和天皇(中央)。久村所長が先導している(元科研職員の小野田悦郎さん提供)
   





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認
 定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
 日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
 この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
 今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
 はないのか?

米中の生物兵器開発?

 

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 
 
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

 

 

 

 
 
 
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物
兵器の開発・研究も行われているのではないか?
 
 
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

 

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??

 

 

 

           
2013年5月12日、安倍晋三宮城県東松島市航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

 

           

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)

 

 

 

 

 

 

日本の中国東北侵略から92年

 

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

 

1月2日

奉天に行ったらうんとあばれてやろうと 元気はあれど金はなし

午前10時半下番  第一歩は何より嬉し―週番下士は田中軍曹 夜は娯楽会ある

中々にぎやかにして盛会なり浪曲コン屋高尾最後至に、あるいは関の五本松。端唄。落語の都々逸何でもよいだ

中隊へ帰ると何より騒ぐのが楽しいのだ 今日もまた相手きらわず班を駆け回る 呑気なもんだ 内地の友達もやはりこのようにせめて正月中は呑気に暮らしているだろうよ

週番下士もでたらめだ 分遺下番を不寝番につけるなんて 戦友起こし回っているだろう

後が恐ろしいが 又分遣さよ―ならだ 組合の娘がいるんだよ・・・・・ハハハ・・・・

 

 

 
 
 
軍都広島での物語

原爆詩集

・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。
 
 

希い――「原爆の図」によせて――

むらがる裸像の無数の(もだ)えが

心にまといつくおののきのなかで

焔の向うによこたわったままじっと私を凝視するのは

たしかわたし自身の眼!



  
 

 

 

 

 
 


 
 
 
封印された原爆報告書
日本政府は、原爆が投下された後、その威力調査を行ない、その結果をまとめて、戦後、アメリカへ英訳して渡した。被爆者の治療は殆どされず、人体実験迄行われた。


 
 
 
1945年9月に被爆地に残留放射線があったにもかかわらず、日米両政府は戦後それを隠蔽してきた。
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  日本は、日中戦争国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』

731研究会編

 Ⅰ 731部隊

731部隊を破壊する

1945年8月14日に行った事

 

溝淵俊美(みぞぶちとしみ)

731部隊・教育部

 

〈経歴〉

1922年生まれ

1943年 731部隊入隊。教員部配属

1945年 教育助教勤務。ソ連侵攻時部隊警備隊指揮班長

1945年8月 帰国

■この証言は手記『平房燃ゆ』からの抜粋で、本人の了解を得てまとめたもの。

 

8月12日

「人間を焼くのは難しいわ。頭と腹はどうしても焼ききれずに残ってしまう、そのうち雨が降ってきたので、余計に苦労したわ。次から次へと2階から“マルタ”が落とされてくるので、薪を敷いて死体を並べてガソリンをかけ、その上に鉄板を置き、その上にまた薪を強いて死体を並べガソリンをかけ、というように、3重に積み重ねて焼いたんじゃ。しかし頭と腹はジュージューいうて焼けずに残ってしまう。そんなところで飯なんか食えるか。命令といっても無茶苦茶や・・・・」

日本軍政下香港(1997.7.27)

 

●『論争731部隊
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行
 
 
速記録
(平成3年9月9日第11回口頭弁論)
 

被控訴(附帯控訴)指定代理人(矢野)

甲第690号証を示す

 

見ておりますが、お書きになった「『日本人の細菌戦専門家による19名が人間を使った細菌戦研究について60頁のレポートを書いている。』」というのは原文に、あるいは訳文にございますか。ないと思います。私、頂いた証拠を点検いたしましたけれども、証人が引用されているこの4行の内容がこのパウエル論文にはないんですが。

 

 そこから引用したはずなんですが。

 

「『日本人の細菌戦専門家による19名が』」というのはどこから始まりますか。

 

 ちょっとお待ちください。確認してから・・・・。

 

 

●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)

Ⅳ 恒常化する毒ガス戦 1938 ~1941

3  新墻河(しんしようが)渡河作戦

写真は単なる煙幕か

 写真5には「我が猛攻に炎々と燃える新墻河対岸語を望んで進む皇軍の勇士(9月23日 森田特派員撮影)」というキャプションが付けられているが、煙は対岸から出ているのではない。火災だというのもウソで、軍の検閲をパスするため、毒ガス使用の事実を隠す方便であることは明らかだろう。しかし、これで、写真4も9月23日の新墻河渡河作戦のものであることは確認できる。

 



 

海軍の相模海軍工廠跡(寒川)を訪ねて(2022年4月9日)
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!
 

 
 
 
略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
 
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市船橋市内)
 
 
 
 
 
 
大久野島の歴史
 
Ⅳ 日本軍の毒ガス戦
 
⑦ 日本軍の毒ガス使用の中止 
 
 1944年になると戦局は日本にとって大きく悪化、アメリカ軍の日本本土攻撃が現実味を帯びてくる中で、日本は毒ガス使用について考え直さなければならなくなりました。アメリカ国内では日本への毒ガス使用を容認する世論が高まっていたのです。そのことを察知していた日本の大本営が1944年1月24日に出した作戦要綱で、重ねて、アメリカ軍が日本に対して毒ガスを使用する口実を与えないように欧米諸国軍への毒ガス使用を禁止するとともに、情報が漏れやすい地域では、中国軍に対しても極力毒ガスを使用しないように指示しています。1945年4月にアメリカの毒ガス先制使用に反対していたルーズベルト大統領が死亡し、ドイツも降伏してヨーロッパで悲惨な毒ガス戦が行われる可能性がなくなり、アメリカ国内では日本への毒ガス使用の動きも高まっていきました。1943年11月タラワ環礁の戦いで、半地下式のトーチカに立てこもった日本軍の抵抗に合い、アメリカ軍に予想以上の犠牲者が出ました。この戦いは「悲劇のタラワ」はと呼ばれ、アメリカ国内に知れ渡り、それ以降、 毒ガスで使用すれば、アメリカ軍の兵士の犠牲を少なくして日本兵を掃討することができるという声が、アメリカ国内で高まっていきました。
 

 

 

SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く - 未来に残す 戦争の記憶



 
中国と日本には、多くの被毒者(毒ガス被害者)がいる!!
チチハル事件以後、一時金は出ているが、不十分である!!
 
山下基之弁護士の話
 
 チチハル毒ガス被害は、日本政府が「旧日本軍の毒ガスである」と認めたことが、先行している二つの裁判と 違うところです。しかし政府は、被害を補償するのではなく、「遺棄化学兵器処理事業に係る費用」として三億円を支出したに過ぎません。中国政府は約八割 を、直接、被害者に配分しましたが、一時金では不十分です。事故時の入院費用だけで受領金の三分の一近くかかってしまった人もいる。将来の入院費を心配し て、重篤な症状を抱えたままの人も多い。
 被害者の全面的な健康調査を実施しなければ、全容は明らかになりません。医療保障とあわせ生活保障が必要です。外務省を窓口に継続的な協議をしていくと同時に、世論にも訴えていきたい。
 

 

認定NPO法人化学兵器被害者支援:​日中未来平和基金

 

 

 
 
●『三光』     中国帰還者連絡会
日本鬼子(リーベンクイズ)

 

核時代39年(1984年)5月初版発行

血の会食

市場に砲弾を撃ち込んで略奪

宮崎敏夫

砲手 兵長

〈略歴〉

学歴 旧制中学校卒業

旧部隊名 第59師団第54旅団第109大隊歩兵砲中隊

年齢41歳

間もなく、「現在地宿営準備、各隊の連絡係集合」本部指揮班長が、大声で怒鳴ってきた。

「チェッ、こんなところで宿営か、もう1時間もすりゃ、済河の県城じゃないか」補充兵に運ばせた乾草の上に、デンと腰を下ろし、煙草をくわえた田辺上等兵が、不服そうに言った。

「田辺、あの女に会う予算が狂ったか、ナーニ、ここも県城よりは都合の良いこともあるぜ、ハハハ・・・」宮崎が、毛むくじゃらな顔の眼を細め、杯をほす手振りをして笑った。

「馬鹿野郎、貴様それでも3ヶ月の教育を受けたのか、年ばかり一人前にくいやがって」

 

 

 

 

    

 

 

    

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日米安保条約自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
 

 

 

 

●『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

藤井治夫著

第3編 主要極秘文書

1 三矢研究

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5 結論 
 
第3 日本に対する事態の波及と日本防衛の準備 
1、日本に対する事態の波及
 第二情勢判断第二項情勢を参照
 
2、日本防衛の準備 
 別紙のとおり協議を実施した。
 別紙第一・・・日本防衛の準備に関する連絡協議事項(以下略)
 
 


 1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。

 『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。

 

 

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊

 

 

 

 

第4代衛生学校長

 

『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1

 

 

 

金原節三と細菌戦

 

金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。

 

細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。

 

金原節三と武見太郎

 

金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。

 

※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!

 

軍事史研究』2010年9月

軍事史関係史料館探訪(56)

陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館

喜多義人

 

収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。

 

 
 

●『BC兵器』 久保綾三著(1969年)

Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦

3,自衛隊における人体実験の疑念 

自衛隊赤痢菌検査の疑惑

生体実験の事実

もとより、こうした生体実験にとって、自衛隊という閉鎖的な社会に住む集団―それは一種の隔離施設と考えてもよいのだが―は、絶好の実験舞台であるはずであり、とくに教官の意志によって規正しやすい学校の生徒であり、しかも武山の少年工科學校のように対象が少年の場合、生体実験を行なうための条件を完璧に備えていたと言ってよい。そこに、技術研究本部第2部や製薬会社で新しく開発または試作された新薬の実験のために、製薬会社と自衛隊あるいは制服の医官との癒着が起こってくるという問題がある。

第5代衛生学校長

 井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身

 1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】

 第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。

  井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。

 又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。

東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。

※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。

1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。

 

南方軍防疫給水部(岡9420部隊)

イタイイタイ病を究明した男 萩野昇 

 
昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より
 
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。

 

 
 


 
 
昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修 

 

 昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

 
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!  

    
第2部    仁愛の政治

1922(大正11)年―1930(昭和5)年

第5章   新しい皇室、新しい国家主義




君主制を光輝あらしめるため、科学技術も利用された。1928年、大礼の年が始まったのは、ちょうど日本が大量宣伝・大量消費の文化に足を踏み入れた時期だった。全国的なラジオの日常放送が大衆の思想や価値観に影響を及ぼすようになってから、すでに3年近くがたっていた。p211

 

 即位の礼は、アジア大陸における日本の新しい軍事行動が始まり、脆弱化した君主制へてこ入れするために、ますます国家的抑圧に依存せざるをえなくなった時期を象徴するひとつの権力行為であった。したがってその効果は、日本における政治反動の台頭との関連で理解されなけれならない。この反動は、田中内閣による中国山東省への数次の出兵と、1928年以後の思想統制に当たる官吏の増加に現れた。

 

日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

 

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 

 

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

RENUNCIATION OF WAR Article 9.

 

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

 

 

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

 

 

 

 

 

 

 

 

IMAGINE9

解説

9条をつかって、

戦争のない世界をつくる。

世界は、9条をえらび始めた。

02

武器をつくったり売ったりしない世界

私たちは、武器を輸出する国になるのか、それとも「武器の禁止」を世界に輸出する国にな

るのか、分かれ道にいます。

 

 

 

【そもそも解説】防衛装備移転三原則の見直し 今なぜ武器輸出拡大?

 

 『鹿屋(かのや)航空基地  史料館』(鹿児島県鹿屋市)について

~ご理解していただきたいことを文章にしました~

2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住)

鹿児島県鹿屋市には戦中、海軍鹿屋航空基地がおかれていて、戦後は、海上自衛隊鹿屋基地になりました。その敷地内には、「鹿屋航空基地史料館」があります。主に特攻隊で出撃して戦死した人たち(908名)の遺影や、遺書、遺品などが展示されています。私の地元でもありますので、30年以上前の頃2回ほど、史料館の見学に行ったことがありますが、それ以後は一度も行っていません。
 
 
 
 
PTSD日本兵と家族の思いと願い大阪証言集会・6月25日』の参加者感想文
2023.6.25


8,すばらしい集会でした。全てよかった。
 
 
 
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

 

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
 
●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
 
※私が考える、今の異常気象の要因は

 

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、戦争、

3、都市化したコンクリートアスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?

 

「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え

核兵器禁止条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

核被災に苦しむウイグルの人々

月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子

 

・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。

 
核兵器禁止条約

 

署名国・批准国

2021年5月18日現在の署名国と批准国。

 

署名国         署名日          批准日 (締約日)

パラオ         2017年9月20日            2018年5月3日

パレスチナ     2017年9月20日                       2018年3月22日

パナマ                       2017年9月20日                       2019年4月11日

パラグアイ               2017年9月20日                       2020年1月23日

ペルー                       2017年9月20日                       2021年12月24日



水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ) 

「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】

核実験の人体実験

 


核融合もすべきではない!!

 

 

 
 
 
なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「反原発!!」と叫ばない!!
 

 

       

      


 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

 
・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。
 
2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。




水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した
 

 

 

 
 
 

 

 

 



           











 

 


 
 
 
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!