「サンデーモーニングについて記載」放送法をめぐる“文書”・・・サンモニ関口宏が「番組の姿勢を淡々と貫いてゆく」とコメント
「細菌兵器製造の731部隊―731部隊軍医秦正氏の証言」
731・原爆・ビキニ
12且26日(月)
13、731部隊・原爆・ビキニなど知ってはいましたが、帝銀事件との関係は解説の方から伺い初めて知りました。この様な残酷な事があったことを風化させてはならないと思います。貴重な展示を拝見できて良かったです。(51歳以上、市内、図書館に来て知った)
劇映画「伊藤千代子の生涯」
南京大虐殺から86年(1937年12月13日南京陥落!)
ロシア軍の残虐行為に「ジェノサイド条約批准を」の声、日本未批准の背景に何がある?
中国 南京事件から85年 追悼式典に最高指導部のメンバーが出席
中国侵略(南京大虐殺、重慶大爆撃等)
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺
第58号 重慶爆撃
【ゆっくり歴史解説】重慶爆撃「百一号作戦」【知られざる激戦110】
医療倫理・研究倫理の深化
原発事故・幻のシナリオ
全国最大 原発訴訟
福島の声を聴いてくださいーー福島県の40以上の市町村議会で汚染水意見書
福島第一原発 処理水放出の開始時期 春から夏ごろ見込む 政府
棄てられた水爆被爆者
「ビキニ事件と俊こつ丸」
核被災と核兵器禁止条約
35円の代償
核なき未来へ
西村経産相が訪米次世代原子炉の開発や建設 日米連携で一致
東芝を沈めた原発事業「大誤算」の責任
東芝買収、JIPが最終提案 銀行団が融資確約
ビキニ被爆訴訟
「核なき未来へ」
学知と骨ー琉球人骨返還訴訟が問うものー
731部隊論文 検証求める有志 申入書提出 総長に懇談を要求(2020.04.01)
京大論文「人体実験と結論付けられない」 今後調査せず
ドイツと日本の謝罪の違い
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
『医学者は公害事件で何をしてきたのか』 津田敏秀著
Ⅲ 必要な制度の見直し
2、学者製造機構としての医局
医局というところ
読者の皆さんには、医師というのは収入が一定程度保証される国家免許を以ているのだから、身軽で自由な考え方ができるのではないかと思われる方が多いと思う。しかし、これは当の本人たちには通用しない。多くの医師は医局という制度の中に必然的に組み込まれるか、もしくは自ら進んで入っていっている。
“黒い赤ちゃん”その後も・・・カネミ油症、次世代が訴える症状【報道特集】
戦後、宮川東大教授(元731部隊レントゲン班班長)が関与した動物実験
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ドキュメンタリー:イタイイタイ病
神岡鉱山とイタイイタイ病 ①
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(日本の歴史)奇病「イタイイタイ病」はまだ終わっていない!忘れてはいけない公害病(アニメでわかる
松本清張と帝銀事件第2部
帝銀事件1審第1回公判(東京地裁)
帝銀事件①
帝銀事件と薬害エイズ事件
冤罪が晴れてもその後の人生に困難を伴う!
社会が許さない 釈放後も「地獄」
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
大牟田爆発赤痢事件(昭12.9.25)は計画された陰惨極まる国家犯罪である!! : 真因は毒ガス・赤痢菌による人体実験
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
米中の生物兵器開発?
原爆詩集
希い――「原爆の図」によせて――
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
731部隊を破壊する
1945年8月14日に行った事
溝淵俊美(みぞぶちとしみ)
731部隊・教育部
〈経歴〉
1922年生まれ
1943年 731部隊入隊。教員部配属
1945年8月 帰国
■この証言は手記『平房燃ゆ』からの抜粋で、本人の了解を得てまとめたもの。
8月12日
そのうち作業に当たっていた少年隊も出てきた。彼らは、一般の軍属の残留者と一緒に、午後2時頃に部隊に入って来た列車に乗って南下するということだった。4時頃になって、その列車は出発していった。
それを待っていたかのように、部隊の飛行場に配列していた砲兵隊が、ロ号棟の砲撃を開始した。ところが見ていると、どの砲弾も壁に跳ね返されてしまう、暫くして今度は野砲隊がやって来て砲撃を始めたが、頑丈な作りの建物には歯がたたなかった。そのうち“満人”の群衆はさらに数を増し、部隊の西側は人で埋まって黒く見えるようになって来た。「わぁー、わぁー」と歓声を上げていた。
被控訴(附帯控訴)指定代理人(矢野)
もしパウエル論文からお書きになったのなら、私どもにお示しになった以外のものではないでしょうか。お示しになったものには、原文にも訳文にもこれに該当する内容はございません。私が拝見した限りは。
今パッと見て確認できないですけれども、お待ちください。
パウエル論文のこの4行がどこに書いてあるんですか。
全体ですね。
そうです。この4行です。
それは必ずあるはずです。
裁判長
ここに指摘されている通りですね。今それを改めるとかではないですね。
はい。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅳ 恒常化する毒ガス戦 1938 ~1941
3 新墻河(しんしようが)渡河作戦
写真は単なる煙幕か
1億人の昭和史に掲載されている写真6のキャプションには 第6師団は9月23日 新生姜 南岸への許可 攻撃を開始 対岸の中国軍人 地へ 毛包 げきとある 攻撃というのは ミスリード気味だが 第6師団の攻撃であると明記されている そこで 毎日新聞社に問い合わせて 問い合わせると 願から 焼き付けられたプリントには S 149.23 新潮が対岸の敵に猛撃を浴びせる 6時 第6師団のこと 学習 南方 カメラ 山上 とあることから 9月23日 新生姜 における第6師団の曽我 攻撃時の写真に間違いは間違いないとの回答があった。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く - 未来に残す 戦争の記憶
認定NPO法人化学兵器被害者支援:日中未来平和基金
核時代39年(1984年)5月初版発行
血の会食
市場に砲弾を撃ち込んで略奪
宮崎敏夫
砲手 兵長
〈略歴〉
学歴 旧制中学校卒業
旧部隊名 第59師団第54旅団第109大隊歩兵砲中隊
年齢41歳
翌日の十時頃であった。田辺上等兵が補充兵の演習に、しかも指名で引っ張り出された不満を、自分の前に干物のように固くなっている40近いひげ面の補充兵に爆発させ、いきなりパンパンと、2つ3つビンタを食わした。やがて、40名近い補充兵が鋸のようにデコボコに凍りついた道を、砲車をガラガラ響かせ、村の中を通って北の畑の中に大砲を引き入れて行った。村の中は、昨日とはまるで違っている。庭には、一面乾草が敷かれ、駄馬が繋がれ、馬糞だらけで、家財道具や衣類が引きむしられた鶏のはらわたのように投げ出され、鶏の羽が風の吹くたびにパッと舞い上がった。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
●『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
3,自衛隊における人体実験の疑念
恐ろしい兵器への結びつき
元々軍隊は人命軽視の思想を基底としなければ成り立たない組織である。保安隊から自衛隊と名称を改めるとともに、自衛隊では公務員に求められている憲法宣誓を忌避していることを考えるならば、自衛隊は憲法に保障されている基本的人権も保障されず、生体実験のモルモットにされるのも異常とは言えないのかも知れない。しかし退職や入隊の自由があり、職業を選ぶ自由がある以上、隊にとどまらずに、また、入隊しないというのも自由であったはずである。したがって、、自衛隊員である以上、道義上はともかくとして、生体実験をされても抗弁は出来ないというのが論理であり、こうした傾向は軍隊における長い習慣であったし、それが軍隊のもつ当然の隊員への要求であったのかも知れない。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第2部 仁愛の政治
1922(大正11)年―1930(昭和5)年
第5章 新しい皇室、新しい国家主義
Ⅲ
治安維持法の改定後、政府はすべての道府県に「思想検事」と「特別高等警察」を配置した。軍隊も憲兵組織に独自の思想係を設け、内務省の警保局保安課は、共産主義者その他の過激派による「反国体陰謀」の摘発に専念することになった。こうして1928年以後、天皇制国家はその批判者に対していっそう過酷な対応をしてゆく。まず共産主義者と、天照大神を最高神とは認めない教派神道組織、大本教および天理教の指導者が、増強された警察の監視のもとに置かれ、弾圧された。監視はのちに言論界や大学の自由主義的知識人にも広げられた。儀礼と宣伝を通じた新天皇の創出過程は、このように思想統制装置の顕著な増強・拡張と手を携えていた。
IMAGINE9
解説
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
世界は、9条をえらび始めた。
03
おたがいに戦争をしないと約束した世界
地球規模では、世界各国が軍隊を減らす一方、国連に「緊急平和部隊」をつくり、紛争や人権侵害を防止しようという提案がなされています。また、イタリア憲法11条は、日本国憲法9条と同様に「戦争放棄」をうたっていますが、そこには「国どうしの平和的関係のためには、国の主権が制限される場合もある」と定められています。つまり、国際的なルールや制度によって平和を保つことが重要であり、「自国を守るため」といって勝手な行動をとることは許されないということです。
グローバル化の時代、人びとは国境を越えて行き来し、経済や社会はつながり合っています。安全を自国の軍事力で守ろうとすることよりも、国どうしで約束をつくり、国際的に平和のシステムをつくることの方が、現実的に必要とされてきているのです。
【そもそも解説】防衛装備移転三原則の見直し 今なぜ武器輸出拡大?
『鹿屋(かのや)航空基地 史料館』(鹿児島県鹿屋市)について
~ご理解していただきたいことを文章にしました~
2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住)
戦後、長い間、自衛隊に取り込まれてきた史料館を、今ここで取り戻して、別の場所に新設することは、極めて実現可能性の高くない事柄なのかも知れません。しかし、沖縄南部地域の戦没者遺骨の混じった土砂を辺野古新基地建設の埋め立てに使うことに対して強い反対の声が起きているのと同様に、戦没者たちを、 生者のエゴ(利益や勢力拡張・好戦的姿勢等)のために利用することは、戦没者たちを踏みにじり、冒涜することであるということを改めて明らかにしたいと思います。そのためにもまず、「鹿屋航空基地 史料館」をご見学していただき、そこが、いかに歪められたものであるかを、ご認識していただきたいと願います。
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
署名国・批准国
2021年5月18日現在の署名国と批准国。
署名国 署名日 批准日 (締約日)
フィリピン 2017年9月20日 2021年2月18日
セントルシア 2018年9月27日 2019年1月23日
サントメ・プリンシペ 2017年9月20日
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●核融合もすべきではない!!