高浜原発1号機 7月28日にも再稼働へ 運転開始40年超で2例目
次世代原発、三菱重工が統括へ…高温ガス炉・高速炉開発を主導
軍拡反対!!
広島市民のG7反対デモ5.20
広島市民のG7反対デモ5.21
広島市民のG7反対デモ5.21続
被爆者インタビュー
高校生「原爆の絵」
【速報】女川原発2号機 再稼働差し止め認めず 仙台地裁
リニア新幹線建設反対
リニア論考:私たちはなぜリニア新幹線に反対しているのか?
リニアモーターカーの稼働には原発3~5基分の電力が必要
映画『ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに』予告編
【ヒロシマを理解したのか】91歳の被爆者サーロー節子さんが見たG7サミット
秋葉前広島市長へのインタビュー
核なき世界へ
上田紘治さん
帝銀事件
戦後最大のミステリー「帝銀事件」犯人は何故被害者と同じ毒物を飲んで死平気だったのか?冤罪?真犯人は旧陸軍?
登戸研究所資料館 / 20181215講演会「帝銀事件と陸軍登戸研究所」
帝銀事件の現場を歩く
松本清張と帝銀事件第2部
関東大震災時の朝鮮人虐殺について
関東大震災後、殺害の朝鮮人慰霊 鐘楼補修費募る 千葉県八千代の寺
関東大震災から100年
下本節子さんのメッセージ
太平洋での核実験で被害を受けた日本人漁民の証言
ビキニ被災者より聞き取り
足摺岬サンセットクルーズ(高知県)
ジョン万次郎の生家を訪ねて(高知県土佐清水市)
宗田節工場見学(高知県土佐清水市)
震洋艇壕跡(高知県土佐清水市)
幡多ゼミOB・顧問と対談
特別交流会
全体集会第1部
全体集会第2部
ビキニ被ばく船員訴訟報告
核兵器禁止条約発効の時代に生きる世代へ
広島・長崎の原爆
映画「ひろしま」
放射能汚染の恐ろしさ
核被災に苦しむウイグルの人々
放射線を浴びたX年後
地震が相次ぐ5月 ここ1週間で震度5弱が2回 地震発生時の行動確認を
日仏が原子炉開発など原子力連携で合意 高速炉に3年で460億円
超党派の議員連盟メンバー87人 そろって靖国神社に参拝
日本の核開発
原発の怖さを考えよう!!
原発大回帰に抗して コリン・コバヤシさん
原発大回帰に抗して: 崎山比早子さん
原発大回帰に抗して コメント・質疑応答
戦争と医の倫理 プレ企画 『731部隊員の証言』
歴史修正主義から「ポスト真実」の時代へ
ワクチン開発と戦争犯罪
731部隊と日本医学会―「未来への提言」を踏まえて―
「声上げたら解雇」は許せない!〜「多摩労務管理事務所」に仮処分守れと申し入れ
【今日でちょうど60年、独占告白】被差別部落出身の青年が「殺人犯」として不当逮捕された…「命の恩人」は三鷹事件で逮捕された男だった
2023 4 1狭山事件:石川一雄さんを訪ねて
狭山事件フィールドワーク
731部隊の実態をきちんと伝えよう!!
「731部隊少年隊・平和祈念館」清水英男さんの証言
長大なトンネルに解剖室…旧日本軍「731部隊」最大規模の“地下実験場”内部が明らかに
英紙報道(共同通信の竹内大志記者による
信濃毎日新聞5月29日
中日新聞5月29日
教育委員会が提案した案第2弾!!(細菌戦の解説欠如、証言パネルを展示せよ!!)
資料
一市民と行政が創る「飯 田市平和祈念館 資料室」設立から学ぶ 一
一市民と行政が創る「飯 田市平和祈念館 資料室」設立から学ぶ 一
旧陸軍の特殊部隊「731部隊」の一部展示を見送る…市教委「事実関係確認されず」
731部隊で行われていたこと
大分地裁 “永久保存”裁判記録「保存期間の満了」理由に廃
「証言 石井四郎」~語られた人物像~
731部隊論文 「検証を求める会」設立 京大の責任を問う
京大「人体実験とする根拠なし」 731部隊論文 本調査はしない方針
福島 雅典京都大学名誉教授
コロナワクチン接種 遺族団体“健康被害の救済認定速やかに”
コロナワクチン8.8億回分、国の確保量「根拠不十分」 会計検査院
新型コロナも鳥インフルも生物兵器か??世界のBSL4施設は何を研究しているのか??
鳥インフルでの殺処分は適切なのだろうか??
「細菌兵器製造の731部隊―731部隊軍医秦正氏の証言」
燃やしつづけた炎
劇映画「伊藤千代子の生涯」
フィールドワーク「多喜二と築地」
多喜二文学の世界への広がり
小林多喜二没後90年 東京大集会
平頂山で何が起きたの?
未だ癒えぬ傷(平頂山事件 生存者の今)2005年
平頂山事件訴訟とは何だったのか
合唱朗読構成 「再生の大地」ー撫順戦犯管理所(短縮版)
重慶爆撃
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
実験医学雑報22巻 第6号(1938年)
伝染病研究所創立40周年記念日式辞
宮川米次
腫瘍発生と濾過性病原体
ここに於いて重大なる謎はある種の作用は、上記のものだけであるか、或いは交戦、熱線等の物理的作用によっても発生するのではないかという点もある。確かに光線「ラジウム」線等によって、発癌のあることは臨床家の認る所である。然らば、熱線又はそれより一層短い2‐3m位の超短波線の作用によっては如何なるものであろうか。残されたる研究事項である。尚知りたいことは、各個体又は局所に於ける素因である。O-Amidoazotoluolの内服によって肝癌を発生する。濃厚ブドウ糖の頻回皮下注射によって肉腫となる相違は何によって招来せらるるものであろうか唯だ源基となる細胞の相違と見做すべきか。
吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第2部 仁愛の政治
1922(大正11)年―1930(昭和5)年
第5章 新しい皇室、新しい国家主義
V
昭和天皇は時とともに、国民の前に姿を現すことが少なくなった。1928年の間、彼は何度も旅行をし、陸海軍大学校とその卒業式、議会、御用邸、皇族御殿、祖先の陵などを訪ねた。直訴をするため、国民の誰かが彼に近づくチャンスはまずどこにもなかった。大元帥としての彼は、陸海軍の特別の閲兵と演習に親臨したが、その頻度は1928年から第2次世界大戦の勃発までの間、だいたい年に4回から6回であった。しかし、天孫の主権者としての神の資格による長途の地域的歴訪(地方巡幸)は急に減り、1936年の北海道訪問を最後に全く無くなった。観艦式や陸軍特別大演習の折の天皇の巡幸は、国民動員の方法であると同時に、神であり軍人である彼のイメージに光を当てる手段でもあった。「立憲君主」としての彼の地位は二の次だった。経済的困難の時代の中で、臣下に対する親愛感を示すのではなく、これらの疑似公的な外見が押し出されたことは、相変わらず天皇を国民の日常から遠ざけ、その実情にうといままにさせるのだった。
●日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
【そもそも解説】防衛装備移転三原則の見直し 今なぜ武器輸出拡大?
『鹿屋(かのや)航空基地 史料館』(鹿児島県鹿屋市)について
~ご理解していただきたいことを文章にしました~
2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住)
私は若い頃、『きけ わだつみのこえ』をよく読んでいました。読んでいく中で波長の合う戦没学生を数名見つけて、現在も時々、読み返しています。とりわけ、佐々木八郎さんの残した手記や日記は私の魂にピタッと伝わってきました。その佐々木さんも、当該鹿屋航空基地から出撃しています。学徒出陣の22歳、沖縄海上で戦死。宮沢賢治の『烏の北斗七星』に関連して書いた自分のエッセイを(第一高校の)クラス会にて発表するほど、戦争(戦いで敵を殺すこと)に対して根本的な疑問を持っていた佐々木さんの、出撃直前と思われる機上での笑顔の写真もあります。それは、生来の朗らかさと親友たちへの別れの笑顔が重なったものと思われます。
【第2部 質疑応答】PTSDの日本兵と家族の思いと願い・大阪証言集会
9,午前の部で問題提起や方向性を中村さんや北村さんの話を聞いて目が開かれる思いでした。私たちの世代は日本兵士の子どもたちで様々な影響を受けています。自分は分からないが社会病理となって無意識なレベルで日本社会を苦しめています。PTSD分析では心理学の知識も必要です。これからもっともっと考え続けたいです。
午後の部で日本兵の家族に証言を聞いて。
太平洋戦争の兵士のPTSDが問題となるまで80年近くも経っている。その間、多くの人が苦しみ続けてきた。この事実に何とも言えない3人の発言はとても重みがある。病気のため父はたまたま兵士として出征しなかった。それをどんなふうに考えていたのだろう。負い目がありながら戦後を生きてきたのだろう。