新型コロナも鳥インフルも生物兵器か??世界のBSL4施設は何を研究しているのか??
「細菌兵器製造の731部隊―731部隊軍医秦正氏の証言」
731・原爆・ビキニ
南京大虐殺から86年(1937年12月13日南京陥落!)
ロシア軍の残虐行為に「ジェノサイド条約批准を」の声、日本未批准の背景に何がある?
中国 南京事件から85年 追悼式典に最高指導部のメンバーが出席
中国侵略(南京大虐殺、重慶大爆撃等)
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺
【ゆっくり歴史解説】重慶爆撃「百一号作戦」【知られざる激戦110】
医療倫理・研究倫理の深化
原発事故・幻のシナリオ
全国最大 原発訴訟
福島の声を聴いてくださいーー福島県の40以上の市町村議会で汚染水意見書
福島第一原発 処理水放出の開始時期 春から夏ごろ見込む 政府
棄てられた水爆被爆者
「ビキニ事件と俊こつ丸」
核被災と核兵器禁止条約
35円の代償
核なき未来へ
西村経産相が訪米次世代原子炉の開発や建設 日米連携で一致
東芝を沈めた原発事業「大誤算」の責任
東芝買収、JIPが最終提案 銀行団が融資確約
ビキニ被爆訴訟
「核なき未来へ」
学知と骨ー琉球人骨返還訴訟が問うものー
731部隊論文 検証求める有志 申入書提出 総長に懇談を要求(2020.04.01)
京大論文「人体実験と結論付けられない」 今後調査せず
ドイツと日本の謝罪の違い
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
『医学者は公害事件で何をしてきたのか』 津田敏秀著
Ⅲ 必要な制度の見直し
2、学者製造機構としての医局
医局というところ
また医局は人事交流を行なうことにより、情報交換機能や、生涯教育の提供機能を持つ。これは、医療関係職の中で医療事務などの外部組織からの人材派遣が進んだ部門に於て、人材派遣の会社が現場のノウハウを蓄積している現実を見ても分かる。現実的には、規制が多く多種の専門性を要求される保健医療業界では、医局が医師のアウト・ソーシング機能そのものであると言える。ただこの医局による人材派遣の機能が効率的かどうかは一度検証してもよいだろう。さらに、現在の大学病院は独立行政法人や独立採算制の問題も出てきているので、このまま医局が機能するかどうかは分からない。民間のドクター派遣会社も出てきている。
“黒い赤ちゃん”その後も・・・カネミ油症、次世代が訴える症状【報道特集】
戦後、宮川東大教授(元731部隊レントゲン班班長)が関与した動物実験
【薬害エイズ事件】安部 英 容疑者逮捕 厚生省に強制捜査 ニュース
新潟水俣病について解説!【四大公害病】
メチル水銀中毒(「水俣病」)
ドキュメンタリー:イタイイタイ病
神岡鉱山とイタイイタイ病 ①
【実話】イタイイタイ病の闇が深過ぎる…(漫画動画)
(日本の歴史)奇病「イタイイタイ病」はまだ終わっていない!忘れてはいけない公害病(アニメでわかる
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
松本清張と帝銀事件第2部
帝銀事件1審第1回公判(東京地裁)
帝銀事件①
帝銀事件と薬害エイズ事件
冤罪が晴れてもその後の人生に困難を伴う!
社会が許さない 釈放後も「地獄」
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
大牟田爆発赤痢事件(昭12.9.25)は計画された陰惨極まる国家犯罪である!! : 真因は毒ガス・赤痢菌による人体実験
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
米中の生物兵器開発?
原爆詩集
あとがき
今年もやがてなくなった人たちの八周忌が近づく。広島では多くの家庭が、一度に応じきれぬ寺院の都合を思い、繰り上げたり繰り延したりしていとなむ法事をそろそろひらきはじめる頃であるが、その座に坐った人たちの閉された心の底にどのような疼きが鬱積しつつあるかということを果して誰が知り得るであろうか。それはすでに決して語られることのないことば、決して流されることのない涙となっているゆえに一層深く心の底に埋没しながら、展開する歴史の中で、意識すると否とに拘らずいまや新しいかたちをとりつつあり、この出来事の意味は人類の善意の上に理性的な激しい拡大性をもって徐々に深大な力を加えつつあるのである。
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
731部隊を破壊する
1945年8月14日に行った事
溝淵俊美(みぞぶちとしみ)
731部隊・教育部
〈経歴〉
1922年生まれ
1943年 731部隊入隊。教員部配属
1945年8月 帰国
■この証言は手記『平房燃ゆ』からの抜粋で、本人の了解を得てまとめたもの。
8月14日
午後7時。列車は発車した、大部分が石炭を満載した無蓋列車(屋根のない貨車)で、中々スピードは上がらなかった、指令車からの命令で、全員が小銃に弾を込めた。暗くなった“北満”の広野を、列車はひた走った。
注 1945年6月、「満州第731部隊」の秘匿名は「満州第25202部隊」に変更された。同時に支部の秘匿番号も以下のように変更になった。
同 ハルピン本部ー満州25202部隊
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅴ エスカレートする作戦 1939‐1941
1 イペリット・ルイサイトの実験的使用
華北での使用
注目すべきことは、中国の民間人の被害は少なくするが、生じてもやむを得ないという立場を取っていることである。 第3国人(ここでは欧米人)の被害は絶対に避けると言っているのだから、人種差別(民族差別)的発想が現れていると言えるだろう。また、「雨下はこれを行わず」と言っているので、飛行機からの毒ガスの撒布は行われなかった。これは「短時間に大量〔のガス〕を要」すため「雨下は効なし」という結果が、中国東北における人体実験を含む「特種試験」により出たからである。こうして、ガス爆弾の投下、ガス砲弾の発射、地上でのイベリットの撒布が行われることになる。この指示によってどの程度の実験的使用が行われたかはよくわからないが、少なくとも次のことは確実である。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く - 未来に残す 戦争の記憶
認定NPO法人化学兵器被害者支援:日中未来平和基金
核時代39年(1984年)5月初版発行
血の会食
市場に砲弾を撃ち込んで略奪
宮崎敏夫
砲手 兵長
〈略歴〉
学歴 旧制中学校卒業
旧部隊名 第59師団第54旅団第109大隊歩兵砲中隊
年齢41歳
「オイッ、宮崎、明日は正月だ、今夜は年越しの会食をやる、今から材料を集める、細かいことは福富の指揮を受けろ」
と、言葉を一寸切って、もう一度、4人の顔をジロリと見まわし、薄笑いを浮かべ、
「その為、お前らを指名したのだ。いいか、うまくやれッ」
中尉は、それだけを言うと、キチンと立っている4人に背を向け、肩をそびやかし、馬に乗っていった。
木下軍曹の指示で、初年兵が砲脚の穴を掘った、宮崎は少し離れた所で砲隊鏡(大型の望遠鏡)をのぞいた。
市場迄800m、城門から100m程離れた少し低い場所にある市場には、赤いのぼりが風に揺れ、その下に屋台店らいいのが並び、白い湯気や、煙が立ち上り、左の方へ細長く続いている。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
●『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
4 公害調査に名を借りたBCW作戦
蛍光粒子使用の意味
米陸軍生物戦争研究所のリロイ・ウォースエギルの生物兵器に関する発表によると、「無害化した炭疽病菌」を水滴の大きさ1~5ミクロン、有効成分5%を含む霧状の雲がジェリージリット装置(発射機)からエアロゾル化して発射する。このスプレー作戦では、海岸2マイル沖の海軍の小型船後部デッキから2マイルにわたって陸地に向かって散布しているのだが、細菌を含んだ霧状のこの雲は広大な地域をエアロゾルで覆い、約100㎢が汚染地域となり、風下23㎞にまで達した、と報告している。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第2部 仁愛の政治
1922(大正11)年―1930(昭和5)年
第5章 新しい皇室、新しい国家主義
Ⅲ
1928年11月から12月にかけて、即位礼は最高潮を迎えた。11月には帝国中の市町村と首都で何十万もの人々が祝宴や賞典式に参加し、何百万もの学童が旗行列や提灯行列に加わった。天皇の仁愛を示すため、この年に貧者の救済や叙位叙勲に数百万円が費やされた。13~14世紀から19世紀にかけての尊皇家にも位階が追贈された。さらに政府は天皇の名で、原敬の暗殺者を含む3万2968人に減刑を行い、植民地でも2万6684人に減刑をほどこした。このほか大赦に浴したものは1万6878人にのぼった。道府県と市町村の当局は、君主制の新時代を拓く活動に空前の数の一般国民を参加させる事業を開始した。
IMAGINE9
解説
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
世界は、9条をえらび始めた。
05
基地をなくして緑と海を取りもどしていく世界
基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人びとにとっての本当の「平和」ではないでしょうか。それは、人びとが 「平和に生きる権利」を確保することでもあります。
フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしていることに対して、人びとは反対運動を続けています。
沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点と して使われることに黙っていられないと、世界の人びとは立ち上がっているのです。
かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたつています。
「ミクロネシアの歴史は、人びとがイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」
【そもそも解説】防衛装備移転三原則の見直し 今なぜ武器輸出拡大?
『鹿屋(かのや)航空基地 史料館』(鹿児島県鹿屋市)について
~ご理解していただきたいことを文章にしました~
2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住)
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
署名国・批准国
2021年5月18日現在の署名国と批准国。
署名国 署名日 批准日 (締約日)
ブルキナファソ 2022年9月22日
赤道ギニア 2022年9月22日 2022年9月22日
ハイチ 2022年9月22日
シエラレオネ 2022年9月22日
ジブチ 2023年1月9日
Total 92 68
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●核融合もすべきではない!!